緋色の鼓動
分厚く垂れ下がった幕を潜り、突如として視界に飛び込んで来た人の姿にエリンシアは思わず目を丸くした。
他者の場所と間違えてしまったのか。一瞬戸惑い、思案して、置かれている物が見覚えのある形である事に気付き、自分の天幕だという事を認識する。
「随分と遅かったな」
先客であり動揺を招く要因となった人物は、眉一つ動かさず、戻って来たエリンシアの姿を見つめていた。
「お待たせしてしまって申し訳ありません、アイク様
──
いえ、アイク」
エリンシアはそっと周囲の様子を窺い、近くに誰もいない事を確認して、目の前で簡素な作りの椅子に腰掛けているアイクの名を呼び直す。それは、互いに想いを寄せ合うようになってから、身分の差はあれど、せめて公の場以外では対等でありたいと願い、以来続けている二人だけの密やかな決まり事だった。
「いや、良いんだ。あんたこそずっと動き回っていて、大変だったんだろう？」
「私なら大丈夫です。幸い、致命的な傷を負った方はいませんでしたから」
エリンシアがその身をアイクの下に置くようになってから、負傷した仲間の苦痛を和らげる為に、他の神官の負担を少しでも減らす為に、天幕や救護の場を巡っては癒しの力を分け与えていた。そして今し方戻ったのも、正の女神が差し向けた使徒と交戦し、傷付いた仲間を治癒し続けていたからだった。無論、エリンシア自身に掛かる負担も軽くは無かったが、裁きが下され、地上に生ける者のほぼ全てが動けなくなった今、女神と戦える者の存在は無くてはならないものであり、決して失わせてはならなかった。
「アイク、貴方も」
エリンシアはアイクの傍らに座り、今まで使っていた杖を差し出す。幾ら彼が歴戦の勇者であるとしても、先陣を切って敵に向かって行ったその身には、少なからずその時に受けた傷が残されている筈だった。
「俺なら平気だ。これ以上無駄な力を使わずとも良いだろう」
しかし、言われた当の本人は首を横に振り、エリンシアの申し出を断ろうとしていた。
「私には、こうしなければならない義務があるのです。どうか傷をお見せ下さい」
「義務、とはまた大げさな言い方だな･･････。まさか、まだ気にしているのか？」
「気にしないようにするなんて、出来ません。だって、アイク。貴方は」
私を助けて下さったのですから。言いながら、視線を落とすエリンシアの表情は、憂いを帯びて薄らと陰を纏っていた。
導きの塔を前にして、互いに再会の喜びを分かち合う間も無く、女神の使徒は突如として現れた。
思いも寄らない奇襲だった。負傷した仲間を癒していた自分の近くで兵が湧くなど、
誰が想像出来ただろうか。剣は鞘に収められたまま、天馬も遥か後方に繋いであり、直ぐに応戦する事など不可能な状況だった。
敵の殺気を受けながら、せめて仲間の命は護らねばと、傷付き倒れている味方の前に立ち、じっと機を窺う。避けられずとも、多少の自衛は出来るだろう、と。
敵兵の武器が振り上げられるのと同時に、その先に待ち受ける光景を予感して、エリンシアは固く目を瞑り、身構える。しかし、一定の間を置いてもその身には何も起こらず、想像していた衝撃も痛みも無い事に気付く。代わりに感じたのは、新たな人の気配。そして、何が起きたのかと恐る恐る目を開けたエリンシアの前にいたのが、危機を察知して戻って来たのであろう、身を呈して自分を庇ってくれたアイクの姿だった。
「･･････迂闊だったのです。私がもっとしっかりしていれば、貴方の手を煩わせずに済んだでしょうに」
持っていた杖の柄をぎゅっと握り締め、エリンシアは自らの非を口にする。自らの身も満足に護れなければ、戦う者としての資格など無きに等しい。
「だが使徒の襲撃は誰も予測出来なかったんだ。あんたの所為じゃ無いのは分かっている」
「ですがアイク、私は貴方の事を」
「エリンシア、もう良い」
これ以上互いに言い合っても埒が明かないと、アイクはエリンシアの唇に指で触れ、続きを制止させる。不意に声を押し止められても尚、何か言いたそうにエリンシアは唇を動かそうとしていたが、それも直ぐに収まった。
「あんたの治癒は受ける。それで良いんだろう？」
アイクの言葉を聞いて、エリンシアはただ黙って小さく頷く。そこで漸く指が離れ、自分の要求が聞き届けられた事に、そっと胸を撫で下ろした。
エリンシアが杖の魔力を解放する姿を見る度、両親の事を思い出すのだとアイクは言う。遥か昔、彼の父が「四駿」と言われていた頃、遠征から戻ると神官だった母から今の自分と同じ事をして貰っていたのだろうと。
アイクの左肩から胸に掛けて、直線状の赤黒い筋が見える。それが、先の戦いで残った傷だった。本人は痛くない、とは言うものの、あくまでも我慢出来ない程の痛みでは無いと言う方が正しかった。恐らくは自分に気を遣っての事なのだろうが、それが逆にエリンシアの心を苦しくさせる。立場上、彼が責務を負うのは仕方の無い事だとしても、自らの身を顧みる事は忘れないでいて欲しかったし、何よりその身に傷痕が残る事に、言いようの無い哀しみを感じていたのもまた事実だった。だから戦いが終わる毎に、せめて二人の時間が持てる時は、必ず治癒させて欲しいとエリンシアは願い出たのだ。
傷の様子を見るに、まだ何の処置も受けていないのだろう。周りの人間を最優先する彼の事だから、自らに向けられた治癒の術を頑なに拒んだ事は容易に想像が付いた。ある程度の時間が経過した以上、痕を完全に消し去るのは不可能だった。だが、このまま何もしないでアイクに痛みを抱えさせるのは、例え本人が気にしていなくとも、今エリンシアが感じている苦しみよりもっと辛い事だった。
杖を構え、エリンシアは祈りの文言をそっと脳裏に浮かべた。淡い光が結集し、瞬く間に散って行くのを見届ければ、残されていた傷は直ぐに塞がれる。言葉を声に出さずに杖の魔力を引き出す事も、瞬時に傷を癒す事も、使役者に余程の能力が無ければ出来ない行為だが、今のエリンシアにとっては造作無い事だ。
「･･････有難うな」
不意に腕を緩く掴まれ、エリンシアの華奢な身体はアイクの腕の中へと収められていく。それが、エリンシアの慈悲に対する、彼なりの返報だった。
遠くで仲間の騒ぐ声が聞こえる。天幕の厚い布を通しても、はっきりと分かる程に。冷たく、無機質な塊と化した人々を数多く目にして来たからか、普段はただの雑音でしか無い筈の喧騒に、不思議と心が落ち着く。世界は、余りにも静か過ぎるのだ。
「いよいよだな」
エリンシアの身体を柔らかく抱き、そっと深緑の髪を梳きながら、アイクが呟いた。明日の戦いの話をしているのだと、容易に察しが付く。
「勝てるでしょうか？」
「勝てるか勝てないかの問題じゃない。『勝つ』んだ。そうだろう？」
「ふふ･･････そうでしたね」
大陸の命運を掛けた決戦を前にしても、アイクの物言いはいつもと変わらず、淡々としている。その事に安堵し、思わず笑みが零れる。
「あんたには最後まで面倒を掛けてしまうが、明日の事は宜しく頼む」
「どうかお気になさらないで下さい。将である貴方が望んだ事なのです。それに･･････」
「それに？」
「不謹慎かもしれませんが、嬉しいのです。これでやっと、貴方と肩を並べる事が出来るのですから」
決して口にこそ出さなかったが、クリミアを救って貰った時から今まで、アイクの恩義に対して何も出来なかったもどかしさが、エリンシアの心の奥ではずっと燻ぶり続けていた。そんな中で告げられたのが、共に正の女神と戦う為に、力を貸して欲しいというアイクの要求であり命令だった。漸く訪れた絶好の、そして最後の機会。拒む理由など何処にも無かった。エリンシアにとって世界を救う事は、無論祖国の為でもあるが、それは同時に他ならぬアイク自身の為でもあった。
「私の力、私の命、貴方に捧げます。どうぞ、全ては貴方の望むままに」
「ああ。だが、それは俺とて同じ事だ」
言いながら、エリンシアの左手はアイクの手によって取り上げられる。そのまま唇を落とされ、不意に与えられた温かい感触に、エリンシアは思わず身を小さく震わせた。左手の薬指、心臓に最も近いとされるその場所に授かった口付け。それは決して上辺では無い、アイクがエリンシアに対して出来る唯一の、最大限の誓いだった。
「俺はエリンシアを信じている。だから、エリンシアも俺を信じろ」
彼の持つ強さと誠意に、自然と胸が高鳴っていくのを感じる。頬を薄らと朱に染めて、エリンシアは小さく頷き、甘えるように顔をアイクの胸元へと擦り寄せた。衣服越しに、体温と鼓動を感じる。
穏やかな心音だった。何物にも動じず、揺らぐ事の無い、アイク自身を象徴する音に、エリンシアの心は満たされていく。
明日になれば、この地は再び戦乱の気に包まれるのだろう。だが、何も思い煩う事は無い。その言葉の通り、彼を信じ、何処までも着いて行く。自分が為すべき事は、ただ一つなのだから。
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暁の支援会話Aのイメージで書いてみました
(2011/05/25 サイト1周年ひっそりこっそり企画その1：手の甲に口付け)