時のない庭
冬の空気は暗く、重々しい。しかし、今日に限って言えば例外だった。ここ数日姿を見せていなかった陽の光が珍しく顔を覗かせて、辺り一面に漂う冷気を和らげていた。
行軍の足を止め、束の間の休息の時間を取る。激戦の続く仲間に目を配り、その身に受ける肉体的な負担と精神的な負担を少しでも軽くする、それが、クリミアの将となったアイクに課せられた事の一つだった。
振るっていた剣を鞘に収め、溜め息を吐く。その頭上では、雲一つない、青々とした世界が何処までも広がっている。正規の軍を率いる立場になり、どれ程の時間が奪われようとも、鍛錬を欠かした事は一度とて無い。幼い頃からの習慣、と言ってしまえばそれまでなのだろうが、こうして己の剣と向き合う瞬間は、父に手解きを受けていた頃の懐かしさを思い出させ、不思議と気持ちが落ち着いた。
穏やかな風を受けながら、周囲の様子に視線を遣る。自分と同じように鍛錬に励む者もいれば、毛づくろいをしている獣牙の戦士の姿も見られる。耳元を掠める笑い声は、童心に帰ったミストやヨファのものだろうか。交戦中には見る事が出来なかった仲間の表情一つ一つに、各々が与えられた僅かな平穏を謳歌し、今この時を精一杯生きようとしているのだという事を実感する。
何気なく辺りを見回していたアイクの視線が、その先にある光景を捉えて止まる。仲間から距離を置いて一人座り込むその姿こそ、アイクに爵位を授けた者であり、クリミア正規軍の旗印、即ちエリンシア王女だった。何故彼女が自分達と同じような場所にいるのか、思うも、直ぐにその疑問は掻き消された。護られる立場の彼女がいつも過ごすのは、砦や本陣の天幕といった閉鎖的な空間。外の空気に触れ、羽を伸ばす時間が必要なのは、エリンシアにとっても同じ事だからだった。
エリンシアの姿は微動だにせず、物思いに耽っているのか、じっとその場に留まっている。普段のエリンシアからは余り見る事の無い、深刻そうに俯く表情に不穏なものを感じて、アイクの無愛想な面持ちが僅かに揺れた。
そっとしておくべきなのか、それとも。一瞬悩んで、やおらその歩みは視線の先と同じ方向へと進められる。このまま離れる事も出来るのだろうが、王家唯一の遺児である彼女を差し置く訳には行かなかった。まして依頼主として契約を結んでいるのであれば、その身を案じる事はごく自然な流れでもあった。
「エリンシア姫」
「
──
！」
思案を巡らせているであろうエリンシアの気を散らさないように、アイクはそっと後ろから声を掛ける。不意に現れた人影に驚いたのか、声のした方を向きながらエリンシアは目を見開いて、アイクの姿を見遣った。
「アイク様、どうされましたか･･････？」
「いや、あんたの姿が見えたもんだから。邪魔だったか？」
「いえ、そんな事はありません。寧ろ、アイク様の方からお声を掛けて下さるなんて、思ってもいませんでした」
言いながら、エリンシアの表情は少しずつ綻んで行った。
声を掛けたものの、そのまま何もせず立ち去るのはエリンシアに対して失礼だと思って、アイクは彼女の隣を指差し、座っても良いかと訊ねる。エリンシアも、アイクが近くにいて困ると言う訳では無いらしい。どうぞ、と、先に彼が指し示した場所に手を差し出して、座るように促した。やおら腰を下ろし、二人の姿が真横一直線に繋がる。思えば、この所連戦続きで私的な時間は皆無に近く、事務的な内容以外の話をするのも久方振りの事だ。
「それで、何をしていたんだ？ 大分考え込んでいるようにも見えたが」
「あ･･････ええと、私はこれを」
エリンシアは膝の上に乗せてあった物を手に持ち、アイクに見せる。革張りの表装が施された、分厚い本だった。どうやら、彼女はずっと読書に耽っていたらしい。真剣な面持ちだったのも、恐らくは書かれている内容を熟考していたからなのだろう。だが、それ以外にももう一つ、アイクには気になったものがあった。
「『戦術書』･･････？」
「･･････！」
「姫、これは一体どういう事なんだ？」
「そ、それは･･････」
表紙に書かれた文字を読み、その意味を理解したアイクがエリンシアに訊ねる。しかし、エリンシアはアイクの問いに対して答えず、ただ慌てふためくだけで、そのまま口を噤んでしまう。
疑問に思わない筈は無いのだ。深窓の佳人が読む物といえば、現実とは懸け離れた内容、即ち伝承や御伽噺の類が多いと考えるのが普通だ。だが、今エリンシアが手にしている本は、そのどちらにも当て嵌まらない。読んでいたのは、晴れやかな今の景色とは対照的なもの
──
それも戦術という、およそ彼女とは結び付かない内容だった。
「･･････申し訳ありません」
一定の間を置いて、エリンシアの弱々しい呟きが耳元を掠めた。思いも寄らない返答に驚き、今度はアイクが目を丸くする。
「待て、どうして姫が謝るんだ？」
「快くは思わないのでしょう？ 私のような者が、こんな物騒なものを読むなど･･････」
「いや、何も責めている訳じゃない。ただ、随分と勇ましいと思ってな･･････」
言ってから、しまった、と思うも、既に遅かった。エリンシアは視線を下に落とし、胸元に寄せるように、否、正確にはアイクの視界から見えないようにする為に本を抱え、今度こそ完全に押し黙ってしまう。精一杯の弁護のつもりだったが、どうやら逆効果になってしまったようだ。
それからどれ位の時が過ぎただろうか。きっと、気にする程の長さでは無いのだろう。しかし、両者にとっては永遠とも思えるような、長い沈黙だった。お互いの間に何とも言えない妙な空気が流れるのを感じて、流石のアイクも焦燥を隠せずにいた。だからといって、彼女をこのまま一人にして立ち去るのは、余りにも無責任な話だ。
思えば、常々エリンシアは語っていたではないか。自分は表立って何かする事は出来ない。されど、周りで支える者達が何をしているか、それを知る義務があるのだと。今の事にしてもそうだ。戦地へ赴く仲間達を憂い、ただ待たされるままの身を悔い、考えた末に出した答えが、主導者として持つべき知識を、例えそれが自分と無関係なものであるとしても、得る事だったのだろう。そんな彼女の隠れた意向に気付かず、ともすれば咎めているようにも受け取れる発言をするなど
──
アイクは自らの軽率さを、密かに恥じた。
「アイク様･･････」
沈黙に耐え切れなくなったのか、エリンシアが恐る恐る口を開いた。本を抱えた格好はそのままに、ちらりとアイクの顔を見遣る。
「あの、私･･････」
「エリンシア姫」
「は、はい」
何か言いたそうに唇を動かそうとするエリンシアの声を、アイクの声が先に覆い、続きを制止させる。
「あんた、疲れてるんじゃないか？」
「え･･････？ ですがアイク様、それは一体」
どういう意味なのですか。言い終わらない内にエリンシアの肩が引き寄せられ、視界が揺らいだ。突如として起きた身の変化に、声にならない声の悲鳴が上がり、先程まで並ぶように視線を交わしていた筈の体勢は、今度は胡坐を掻いて座るアイクの膝の上に、エリンシアの頭が乗る体勢へと取って代わられていた。上から見下ろされる視線と、頭越しに伝わる体温と、肩に置かれた大きな手を感じて、エリンシアの思考が固まる。
「あ、あの、アイク様･･････？」
「折角なんだから、暫くこうしていろ」
そう言って、アイクはエリンシアの持っていた本を取り上げ、彼女の手の届かない場所へと追い遣ってしまう。瞬間、エリンシアの血の気がさっと引いて行くのが見て取れた。
「あ･･････！ 待って下さい、それは
──
」
「別に捨てる訳じゃ無い。ただ、な」
戸惑うエリンシアに対して、半ば諭すような口調でアイクは言う。
「少しくらい休んだって良いだろう？」
我ながら下手な誤魔化しの仕方だ。だが、他の方法を思い浮かべられる筈も無く。
アイクの態度にエリンシアは躊躇うも、やがて反論出来ないと悟ったのか、観念したように小さく頷くと、少しだけ身を捩らせてアイクの顔を見上げた。今までに無い程の距離の近さに、絹のように透き通った頬が僅かに朱を帯びる。
「エリンシア姫」
「･･････何でしょうか？」
「あんたが国や俺達の事を考えてくれているのは分かる。だが
──
」
余計なお世話かもしれないが、そう言いながら、言葉を続ける。
「あまり一人で背負い込もうとしないでくれ。時には何もしないって事も、必要な務めなんだからな」
クリミアの領内に入り、遺臣達との再会を果たした事によって、以前にも増して祖国奪還の気は高まっている。それは同時に、エリンシアに新たな負担を強いる事も意味していた。生真面目な彼女の事だから、きっと何も言わずに黙って受け入れるのだろう。いつの日か訪れる、王としての、在るべき姿となる為に。だが、ともすれば触れただけで消えてしまいそうな儚くか弱い身体に、纏う運命は多く、重い。それがどれ程、彼女の心を苛む事か。
故に、例え全てを理解出来なくとも、代わる事は出来なくとも、やはりその身を案じずにはいられない。アイクにとって、エリンシアは祖国再興の光であり、雇い主である以前に、家族同然の、大切な仲間だった。
「アイク様･･････有難うございます」
アイクの言葉に感じるものがあったのか、エリンシアの表情がふっと柔らかくなる。彼女が心から穏やかだと思える時に見せる顔だった。それを見て漸く安堵し、アイクも硬いままだった表情を崩して、身体を預けるエリンシアを静かに見つめていた。
「さて･･････そろそろ戻るか？」
陽はゆっくりと下降し、徐々に外の空気も冷たさを纏い始めて来ていた。これ以上長居するのは体に障るから、とアイクはエリンシアに促すも、彼女は僅かに身を起こして陽の沈む様を一瞥し、そっと首を横に振る。
「いえ、もう少しだけ･･････」
少しだけ決まり悪そうにしながら、アイクの顔を見上げる。
「これが、私の務めなのでしょう？」
貴方が仰ったではありませんか。そう言って、破顔した。
エリンシアの言葉に、アイクは一瞬呆気に取られたような表情を見せたが、直にその意味を理解すると「それもそうだな」と頷き、今一度細身の身体を強く引き寄せた。互いの体温が仄かに伝わり、充足感のようなものが全身をゆっくりと巡って行く。この時、傍らに寄り添うエリンシアの中に大きな決意が生まれていた事を、アイクは知る由も無い。
エリンシアが祖国の為に剣を取り、アイクと共に戦線を駆けるようになるのは、それから間もなくの事である。
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たまには息抜き的なお話もどうでしょう
(2011/05/25 サイト1周年ひっそりこっそり企画その2：膝枕)