影の如くに隣る
陽は既に空高く昇っているというのに、身を起こす気にはならなかった。ならなかったというより、なれなかった、と言った方が正しいかもしれない。窓の外に目を遣り、大きく溜め息を一つ吐いてから、視線を天井の無機質な柾目へと戻す。
風の無い穏やかな、絶好の鍛錬日和だった。にもかかわらず、アイクの身は寝台の上にある。明け方、いつもの時間に目覚めた所までは良かったが、同時に例えようのない不快感に襲われた。自分にとっては珍しく、寧ろ体の頑丈さは持っている数少ない取り柄で、それこそ高熱を出して寝込んだ、なんて経験は片手の指で足りる程度の回数でしかなかったのだが、今回ばかりはどうにも体が動かなかった。
正式に祖国クリミアの将となった昨日の夜、仲間内で開いた祝宴の席で杯を口にしたのが全ての原因だった。元々興味は無かったのだが、成人年齢も過ぎた事だし呑んでみたらどうだと囃し立てられて、少しくらいならと思ったのが良くなかったらしい。注がれたのが、意外にも自分の口に合ったという事もあり、若気の至りと言ってしまえばそれまでなのだが、限度を考えず、後に降り懸かる災難も知らず、勧められるがまま呑み続けてしまったのだ。
些か乱雑に、顔の半分辺りまで掛けていた毛布を払い、もう一度溜め息を吐く。何度体勢を変えても、不快な感覚は胸の奥底で燻り続け、一向に治まる気配は無かった。我ながら情けない事だ、と無言の呟きを脳裏に浮かべる。こうして寝台の上に横たわり、何も出来ないでいる自分を不甲斐ないと思わずにはいられなかった。思った所で、後の祭りだとは分かっていても。
ベグニオンとセリノス、両国の柵が長い時を経て漸く取り除かれた反面、対デインとの戦況は、未だ一瞬の油断も許されない状態が続いている。そんな中、出撃要請が下らない事だけが、今のアイクにしてみれば不幸中の幸いだった。きっと今頃は仲間同士で、クリミアの将を弱らせるなら武力でもなく話術でもなく酒の類だ、などと冗談めかして話しているに違いない。否、もしこれが敵に知れていたなら、もっと大変な目に遭っていただろう。味方の中だけで話が済んでいるのだから、まだ良かったと思うべきなのだ。そんな事を考えながら、固く目を閉じ、じっと苦しみに耐え続ける。無意味な事でも何か思い浮かべていた方が、気が紛れて多少は楽にはなる、そんな気がした。
意識が遠のいては不快感が湧き上がり、不快感が湧き上がっては意識が遠のいていく。僅かな時間の中で、何度そう繰り返したか分からない。休んでいる間にもミストやティアマトが部屋に入り、声を掛けたり着替えを置いてくれていた筈なのだが、悪いと思いつつもあまりよく覚えていなかったのが正直な所だ。
次にはっきりと意識が戻ってきたのは、すっかり陽が傾いてからだった。ほぼ丸一日を眠る事に費やしたからか、不快な感覚も起き抜けの時よりはずっと軽くなっていた。随分と無駄な時間を過ごしてしまったと思いつつ、やおら身を起こして辺りを見回す。神使からにせよ仲間からにせよ、何か伝達がある場合には部屋にその旨が残されているのだが、書き置きの一つも無い所を見ると、今日は一日休ませておいた方が良いと周囲の人間が判断してくれていたのかもしれない。
ふと遠慮がちに扉を叩く音が聞こえて、アイクの視線はそちらへと向けられる。また妹が様子を見に来たのか、それとも城の従者が来たのか。思うも、扉が開かれる気配は無かった。
「･･････誰かいるのか？」
問い掛けても答えは返って来ない。聞き違えたのか、そう思いながら様子を窺うと、扉の隙間から僅かに人影が動くのが見えた。誰か来たのは確かなようだ。しかし影の主は部屋にも入らず、自分の問い掛けにも答えず、ただ扉の向こうで留まっているだけだ。
「そこにいるのは分かってるんだ。用があるならさっさと入って来たらどうなんだ」
アイクは語気を鋭くして、扉の向こうにいるであろう人物に言い放った。もしかしたら、自分の言葉に驚いてその場から去って行ってしまうかもしれない。一瞬過ぎったが、どうやら効果はあったようで、ゆっくりと扉の開く音が聞こえてきた。部屋の前で何をしようと個人の勝手なのだろうが、かといって不可解な行動を取られるのは気味が悪い。一体何処の誰が、そんな理解し難いような事を。そんな考えを巡らせながら、アイクは訝しげに影の主の正体を睨んだ。
「あ、あの、お休みの所申し訳ありません･･････」
「
──
！！ エリンシア姫！？」
現れた人物を目の前にして、険しかったアイクの表情が一転する。扉の向こうにいたのは、祖国の王女であり、雇い主であるエリンシアその人だった。強い口調で言われた故か、エリンシアは開いた扉の傍から一歩も動かず、心底申し訳なさそうに小さく身を縮こまらせていた。
「あの、お邪魔でしたでしょうか？」
「い、いや、そんな事は無い。ただ、どうして姫がここに？」
「アイク様のお加減が優れないと伺ったものですから、お見舞いを、と思いまして･･････」
「そ、そうだったのか」
こちらの様子を窺いながら、恐る恐る話すエリンシアの姿に、浮かんでいた疑念はあっという間に脳裏の隅へと追い遣られた。部屋に入るのを躊躇していたのは、床に臥している自分への配慮だったのだろうか。訪れた人物が誰かを予測出来なかったとはいえ、自分が強く言った所為で、結果的に彼女を責めるような形になってしまった事を密かに悔やんだ。
「あ、お兄ちゃん起きてたんだ。良かった」
エリンシアの後ろから、ひょっこりとミストが顔を覗かせたので、アイクは「ああ」と小さく頷いた。その手には、水の入った硝子の器と白磁の蓋で覆われた器を乗せた金属製の盆を持っている。
「ミストちゃん、連れて来てくれて有難う」
「いいえ、どういたしまして。それより、持ってくるものはこれで良かったですか？」
「ええ。無理を言ってごめんなさいね。助かりました」
「良いんですよ。エリンシア様のお願いなら、私、幾らでも聞きますから」
二人の遣り取りを察するに、ミストは先にエリンシアを部屋に案内して、必要なものは後から取りに行ったのだろう。だとすれば、エリンシアが扉の前で待っていたのも頷ける。ぼんやりと考えを巡らせながら、今一度アイクは、もう少し言葉を選んで言うべきだったと後悔した。
「さあ、エリンシア様。どうぞ入って下さい」
「え？ は、はい･･････」
ミストが視線で促し、先に入っていくので、エリンシアも「失礼します」と軽く一礼して後に続いた。持っていた盆を、寝台の近くに置かれた小さな机の上に下ろして、ちらりと後ろを振り返る。まだ若干の遠慮が残っているのか、エリンシアは入ってから数歩進んだ所で立ち止まり、動こうとはしなかった。何か様子がおかしいと感じたのか、ミストの表情が僅かに変化する。
「お兄ちゃん。まさかエリンシア様に変な事言ったんじゃないでしょうね」
疑いの眼差しでミストから問われて、思わずアイクは目を見開いた。
「ば、馬鹿を言うな。そんな筈あるわけ無いだろう」
「だったら良いんだけど･･････。お兄ちゃん無神経なんだから、言葉には気を付けてよね」
相手は王女様なんだから。そう付け加えると、ミストはアイクの返答を待たずにエリンシアに会釈して、部屋を出て行ってしまう。妹に釘を刺されて、捨て台詞の一つでも零したくなったが、エリンシアのいる手前、ぐっと堪えた。
エリンシアと二人、部屋に取り残されて、何とも言えない緊張が漂う。相手が彼女だからか、互いの距離間が微妙だからか、どちらかは分からない。
「その･･････申し訳ありませんでした。急に来てしまって、驚かれたでしょう？」
「いや、そんな事は無い。それよりも･･････もう少し傍に来て貰えないか？」
「え？ お傍にですか？」
「あまり離れいてると話がしにくい」
「は、はい。それでは･･････」
言われて、エリンシアは怖ず怖ず寝台の傍まで寄ると、近くにあった椅子の上にそっと腰を下ろした。一瞬視線が交差して、思わずだらしなくしていた背筋がぴんと伸びた。
話がしにくい、とは言ったものの、改めて面と向かうと逆に言葉が出て来ない。元来人と話す事は不得手ではあるが、まして相手が異性で、且つ高貴な身分の者であれば尚の事、慎重にならざるを得なかった。
「･･････宜しければ、召し上がりませんか？」
気を遣ってくれたのか、先にエリンシアから切り出された。ミストが置いて行った陶器の蓋を取ると、中には小さく等分された林檎が数個並べてあった。勧められるまま、一つ目の欠片を口に放り込む。一日中何も口にしていなかったからか、口内に広がる酸味と甘味が不思議と心地良く感じた。
「お味は如何ですか？」
「ん？ ああ、美味いぞ」
エリンシアから尋ねられたので、思った事を素直にそのまま口に出す。アイクの言葉にエリンシアも安心したのか、緊張気味だった表情をふっと緩めて「良かったです」と微笑んだ。
「お節介だとは思ったのですが、アイク様が休まれていると伺って、居ても立っても居られなくなってしまって」
「いや、姫の気持ちは有り難い。俺の方こそ、余計な心配を掛けさせてしまってすまなかった」
「いいえ、お気になさらないで下さい。大事に至らず、安心しました」
「『大事に』だなんて随分と大げさだな。ただの二日酔いに、そこまで気を遣わなくても良いんだぞ？」
「まあ、二日酔いだったのですか？」
「！？ 何だ、知らなかったのか！？」
言われて、アイクの表情が強張る。てっきり彼女にも不調の理由は伝わっていると思っていたのだが、どうやら違っていたようだ。
「はい。皆様と集まっていた事は知っていたのですが、それ以上の事は何も･･････」
エリンシアがきょとんとした表情を見せるので、アイクは二の句が継げなくなる。理由が理由なだけに、知らないなら知らないままでいて欲しかった。そう思ったが、自分から白状してしまった以上、それは叶わなかった。
「･･････すまん。ただでさえ大変な時だというのに、情けない話だ」
観念して、アイクはエリンシアに自らの非を詫びた。幾ら温和な彼女であっても、流石に窘めの言葉の一つは出て来るかもしれない。腹を括ったが、エリンシアの穏やかな表情は変わらなかった。
「そんな事仰らないで下さい。寧ろ、ほっとしたのですよ？」
「？ どういう事だ？」
「きっと、アイク様も皆様も、大いに楽しまれたのでしょう？」
「あ、ああ。一応は、な」
「だからこそ、ほっとしたのです。今の状況では、羽を伸ばす事などそう滅多に出来ませんから･･････」
それは他ならぬ私自身の所為なのですが。そう付け加えて、エリンシアは少しだけ俯いた。あくまでも責めようとはしない彼女の優しさに、鈍い痛みのような感覚が胸中に走った。
連日、会いたくも話したくもないようなベグニオン貴族の者達に、エリンシアが何度も頭を下げているという話をアイクも耳にしている。祖国再興の道を開く為には必要な事とはいえ、身内や気心の知れた仲間のいない中、彼女は沢山の責務を負ってきたのだ。そして、今もそれは続いている。羽を伸ばす事が必要なのは、寧ろエリンシアの方だろうに。そんなもどかしい思いが浮かんで、無意識の内にアイクは両の手を固く握り締めていた。
「あ･･････申し訳ありません。アイク様がお休みなのに、私ったら気持ちが沈むようなお話をしてしまって」
「い、いや、俺の方こそ気を遣わせてしまってすまない」
再びエリンシアが項垂れるので、アイクは慌てて首を横に振って答えた。ふと互いの声が途切れて、一瞬の沈黙が訪れる。何か彼女の気に障るような事を言ってしまったかと不安が過ぎったが、俯いていたエリンシアの口元は綻んでいた。
「さっきから私達、お互いに謝ってばかりですね」
言いながら、エリンシアは微笑する。アイクは、そうだろうかと首を捻ったが、思い返してみれば謝辞の意ばかりを口にしていたと気付いて、すぐに納得した。強く握り締めていた手の緊張が、ふと緩んだ気がした。
「なあ、姫には休める時間はあるのか？」
「え？ 私に、ですか？」
「ああ。俺達のいない所でも、随分苦労していると聞いたからな」
あまりエリンシアが深く考え過ぎないように、務めて自然にアイクは尋ねた。自分が聞かれたからか、話題を変えられたからか、エリンシアは半ば放心したような顔付きでアイクを見つめる。
「そうですね･･････今が、私の休める時間、とでも申しましょうか」
「今、か？」
「ええ。駄目ですか？」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、エリンシアは言う。
「実は、お見舞いに伺ったのは、神使様からのご提案だったのです」
「神使が？」
「ええ。最近は私もアイク様も、お互いにゆっくりお話出来る時間を持てなかったでしょう？」
「ああ、そうだな。･･････成程、俺の具合が悪くなったから、それで切欠を作れたという事か」
「はい。その･･････アイク様には失礼かもしれませんが」
「いや、そんな事はない。あんたが良いと思っているなら、俺は構わん」
エリンシアは言わなかったが、恐らくは神使から、貴族達との会合を避ける口実を作って貰ったのだろう。クリミアの将軍となった自分が主君であるエリンシアと話し合う事は、今後を考えれば優先されるべきであったし、もっともな理由があればエリンシアの体面が保たれる。当然と言えば当然なのだが、あの喧しい幼子にも彼女を思い遣る心の広さがあったのだと、アイクは多少なりとも感服していた。
「後で神使から言われそうだな。国を再興する将たる者が、主君の前で情けない姿を見せるなとか何とか」
「ふふ･･････そうかもしれませんね」
物言いから、辟易しているわけではないと伝わったらしい。エリンシアは笑みを浮かべたまま答えた。無論、自分の失態に対して情けないという思いは変わらない。だが、結果として彼女が心穏やかに過ごしているのなら。神使の苦言の一つくらい、取るに足らぬものではないだろう。そんな思いも同時に浮かんで来る。
「エリンシア姫」
「何でしょうか？」
「いやな、折角なら姫の気が済むまで、ここにいたら良いんじゃないかと思ったんだが」
言われて、エリンシアは思わず目を丸くした。あまりに彼女が驚いたような反応を見せるので、差し出がましい事を言ってしまったと焦るが、言ってしまった以上後には引けなかった。
「宜しいのですか？」
一瞬の間を置いて、エリンシアが答える。
「ああ。あんたさえ良ければ」
「アイク様はお辛くはないのですか？」
「大丈夫だ。流石に一日休めば、な」
「ではお言葉に甘えて･･････。アイク様、お気遣い有難うございます」
「いや、礼なら良い。俺が姫にしてやれる事と言えばこれくらいしか無いし、それに･･････」
「ゆっくりお話も出来ますしね」
エリンシアの明るい声が返ってくる。朴念仁の自分には、彼女を喜ばせるような話は出来ない。だが、逆に聞く事は出来る筈だ。僅かな時間の内であっても、エリンシアが今の、そしてこれからの、重荷を感じずにいてくれるのなら。少しは自分の不甲斐なさも浮かばれるかもしれない。
「何だか改めてお話するとなると、少し緊張してしまいますね」
「そんなに気負わなくて良いんじゃないか。姫が話したい事なら、何でも聞くからな」
「分かりました。それでは･･････」
何処となく気恥ずかしそうにしながら、エリンシアは微笑んだ。何となく、何となくではあるが、きっと自分と同じように彼女も居心地の良さを感じている。そんな予感がした。
時を待たずして、新たな戦いの火蓋は切られる事になるだろう。亡国の姫君に対して、一傭兵の立場として語らう、これが最後のひと時だった。
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蒼炎のアイエリは、何てことない日常の一コマでも充足感があるのが良いと思うのです
(2013/05/25)