優しく騙して

　ここ数日続いていた晴天が、今日も空を青く透き通らせていた。季節の変わり目で、朝晩は冷たさを感じる事が増えてきたが、まだ日中は温かい空気に包まれている分、さほど気にはならない。外に出るには、うってつけの陽気だった。軍を率いて出立するともなれば、尚の事。

「エリンシア様、お兄ちゃんを見掛けませんでしたか？」

　クリミアの兵と、ガリアの兵と、神使派のベグニオンの兵と、大勢の兵達が出撃準備に追われつつクリミアの王城を行き交う中、ミストが遠慮がちにエリンシアに声を掛けてきた。

「いいえ。どうかしたのですか？」

　僅かに首を横に振って答える。エリンシアの言葉に、ミストは困ったように眉を顰めた。

「それが、もうそろそろ集まらないといけないのに、お兄ちゃんったら全然来ないんです。エリンシア様なら、きっと何か知ってると思ったんですが･･････」
「そうだったのですか。ごめんなさい、力になれなくて」
「いえ、良いんです。私、もうちょっと頑張って探してみますから」

　お忙しい中すみませんでした、そう言ってミストは小さく頭を下げると、慌ただしく踵を返して王城の廊下を駆けて行く。会話もそこそこに行ってしまったのを見るに、かなり切迫した状況なのだろう。連合軍の総司令官として、アイクがベグニオン皇帝サナキから直々に任命されたという報せは、エリンシアの耳にも届いている。その最も重要な役割を担った人間が、ましてこれから戦地へ赴こうと各々が奮起している大事な時に、姿を見せないともなれば、火急の用があったのではないかと考えるのが普通だ。彼に限ってそんな事は決して有り得ない筈だが、その身に何か起きてしまったのか、それとも与えられた役目を放棄したがったが為に、何処かへ身を潜めているのか。様々な憶測をエリンシアは脳裏に巡らせるも、考えるよりも動いた方が早いと、日の光で薄く照らされた廊下を足早に歩いて行く。無論、エリンシアとて自由に動ける立場ではないが、人を探すくらいの時間なら充分に取れる。

　忙しなく動く人の間を抜けながら、エリンシアはアイクの姿を探す。途中、彼と親しい間柄の仲間達に声を掛けながら、或いは掛けられながら、彼がいるのではないかと思われる場所を隈なく探すが、そう簡単に見つけ出す事は出来なかった。

　方々を尋ね回ったものの、目的の人物は未だ姿を現さない。その間にも、城門に並ぶ兵の数は増えて行き、出立の時を今か今かと待ち構えている。早く来て貰わなければ、そんな焦りが少しずつ胸中に浮かんで来る。心当たりは既に出尽くしてしまった。途方に暮れ、立ち竦むエリンシアだったが、ふと考えが過り、直ぐに歩は思った方へと向けられる。可能性としては低いかもしれない。しかし、決して有り得ないというわけでもなかった。

　玉座の間から城門へと繋がる道の途中に、その場所はある。ぱっと見ただけでは壁と同化していて、その先に別の空間が続いているようには到底見えないが、目を凝らせば入り口があると分かるようになっている。王城が予期せぬ襲撃を受けた際、一時的に退避出来るように作られた場所ではあるが、彼がクリミアの貴族の一人として王城にいた頃は、息抜きをする為に度々そこへ行っていたのだと、かつて密かに教えてくれた事をエリンシアは思い出していた。隠れて何かをするには持って来いの場所かもしれないと、彼なりの冗談を付け加えていたという事も。

　少しばかりの細道を進み、目の前が開けた所でエリンシアははたと立ち止まる。ここに来るのはデインの侵攻を受けて以来久し振りだが、薄い灰色の壁と柱に囲まれた空間は記憶にあるものと変わらず、天上から降り注ぐ日の光の温かさも変わらない。時節柄、今は草木も花も最盛期の華やかさは潜めているが、あまり公にされていない場所といえど、それなりの手入れはされているらしく、観賞に値するだけの景観は常に保たれているようだった。それ故、普段あまり見る機会がないのは逆に勿体無いと感じてしまう。

　暫しぼんやりと眺めていたが、慌てて当初の目的を思い出し、エリンシアはアイクの姿を探す。周囲に目を遣り、ゆっくりと歩きながら奥へと進んでいくと、琥珀色の瞳が僅かに見開いた。

「アイク様！」

　思わず声を上げて、エリンシアは小走りに駆け寄る。読み通り、確かにアイクはそこにいた。しかし、はっきりとその姿が見えた瞬間、エリンシアは面食らってしまう。城内に緊迫感と高揚感の漂う中、軍の将である筈のアイクは、その身を草の上に投げ出して微動だにしなかった。

「アイク様･･････？」

　傍らに座り、エリンシアは恐る恐る声を掛けるが、アイクからの返答はない。微かな吐息が聞こえてくるだけだ。

「アイク様、どうか起きて下さい」

　もう一度呼び掛けても、その瞼は固く閉ざされたまま。思った以上に深い眠りに就いてしまっているのだろうか。残された時間は少ないというのに、果たしてどうすれば良いものか。エリンシアは困惑した表情で、アイクの顔を見遣った。起こさなければならないのは分かってはいるが、かくも穏やかにしている様子を見てしまうと、無理に起こしてしまうのも忍びない。大事な局面を迎えている時に、よくぞここまで大胆な事が出来るものだ。エリンシアは無言の呟きをそっと頭の片隅に浮かべた。呆れたというよりも、予想外の状況にただ驚いている気持ちの方が強かった。

　投げ出された右手の近くには、アイクが普段から使っている大振りの剣が、鞘から引き抜かれた状態のまま置かれている。どんなに忙しくとも、限られた時間の合間を縫っては常に鍛錬に励んでいた彼の事だ。きっと彼なりの「準備」が必要だったのだろう。そして、少し休んでからすぐに戻るつもりでいたのだろう。総大将たる者が、部下に目を配らずしてどうするのか。そんな声が聞こえてくるのは分かっているが、剣を振る時間はどうしても作りたい。そんな相反する思いが、アイクをここに連れて来る要因になったのかもしれない。

　無意識の内に、エリンシアはアイクの右手を取り、そっと自分の両手で包み込んだ。数多の戦いを潜り抜けて来たからか、そこには無数の小さな傷跡が残されている。骨ばった指先も手の甲も、剣の柄を握り続けて厚くなった手の平も、日に焼けた肌の色も、自分のそれとは全く違う。やはり彼は紛う事なき歴戦の勇者なのだ。改めて、エリンシアは実感した。命の危機に瀕した時、不安に押しつぶされそうになった時、いつも傍にあったのはアイクの手だった。彼に望まれ、そして自ら望んで決別する形にはなったが、陰になり日向になり寄り添ってくれたその一瞬一瞬は、今でも大切な記憶としてはっきりと心の中に刻まれている。

　幾度となく護り導いてくれたその手に、今は新たな使命が託されている。どれ程の責任が伴うのか、そして何故彼ばかりがそんな役割を担わなければならないのか、考えるだけで胸の奥が鈍く揺れ動く。しかし、他に適役者がいるわけでもない。恐らく彼自身も承知の上なのだろう。その人の持つ力の大きさによって、与えられるものの大きさも変化する。その事を一番よく知っているのは、エリンシアだった。

　指先をそっと撫でて、ゆっくりと唇を落とす。再び戦場へ旅立つ彼に対して尊敬と祝福を込めながら、武運の長久を祈りながら。普段なら気恥ずかしくて躊躇してしまうが、微睡みの中に漂っている今だからこそ出来る、そう思った。肌に触れた口元が少しだけ綻ぶ。

「エリンシア･･････？」

　だが、夢心地だった空気は瞬く間に掻き消えてしまう。

「 ── ！　アイク様･･････！」

　アイクの声に驚き、エリンシアは慌てて両の手を放すと、咄嗟に胸の前で固く押さえつけた。手の平に、急き立てられた自分の心臓の鼓動がはっきりと伝わってくる。

「あ、あの、お目覚めになられたのですね」

　やおら身を起こすアイクに、務めて平静を装いながらエリンシアは言う。

「ん？　ああ、そうだな。しかし、どうしてエリンシアがここに？」
「ミストちゃんや皆さんが探していたものですから。それで私もと思いまして･･････」
「そうだったのか。それは悪い事をした。すぐに戻るつもりだったんだが」
「こちらで剣の稽古を？」
「ああ。生半可な気持ちで戦地へ出て行くわけにはいかないからな」

　うっかり寝てしまったのは想定外だったが。そうアイクは付け加えた。起き抜けではあるが、意識ははっきりしているらしい。己が何をしていたのか、これから何をすべきなのか、敢えてこちらから伝えずとも既にアイクは分かっているようだった。

　慣れた手つきで剣が鞘に仕舞われ、溜め息を吐く音が聞こえてくる。差し迫った状況ではある筈だが、いつもと変わらず落ち着いた様子を見せるアイクに、エリンシアの胸中には不思議と安堵にも似た思いが浮かんで来ていた。同時に、自分が今し方していた事を詮索されずに済むかもしれないという事も。

「後で神使に嫌味の一言でも言われそうだな」
「大丈夫ですよ。きっとサナキ様も、アイク様がどういう方かはご承知の上でしょうから」
「どういう意味だ？」
「貴方が信頼に足るお人柄だという事です」

　エリンシアの瞳に、訝しげな表情で首を傾げるアイクの姿が映り込んでくる。納得したのか、していないのか。恐らくは後者の方だろう。回りくどい物言いは彼に伝わりにくいと知ってはいたが、思惑通りの反応を返されるのも何だか可笑しい。

「さあアイク様、参りましょう。皆様がお待ちですよ」
「ああ。だがその前に ── 」
「 ── っ！」

　不意に視界が揺れ動いて、エリンシアは小さく悲鳴にも似た声を上げた。両腕を強く押さえつけられ、背中に固い感触が伝う。組み敷かれた体勢になったのだと理解するまでに、そう時間は掛からなかった。

「あ、あの、アイク様、一体何を･･････」

　困惑した様子で、エリンシアはアイクの顔を見上げた。先程とは違い、幾分熱さを含んだような視線が注がれている。その口元は、僅かに引き上がっているようにも感じられた。

「やられっ放しというのは、俺の性には合わん」

　その一言で全てを察した。息が詰まりそうになった。見る見るうちに頬は朱に染まり、天上からの陽光は声なき感情を露わにさせる。こうなってしまえば、もはや誤魔化しも言い訳も通用しない。気付かれていたのだ。自分が彼に対してした事を。一体いつの間に。そして何故黙っていたのか。様々な思いが駆け巡ったが、声に出す事は出来なかった。エリンシアの唇はアイクの唇によって塞がれ、浮かんだ言葉は脳裏の奥へと掻き消えて行った。

「･･････さて、行かないとな。見送ってくれるのだろう？」

　羞恥で俯いたまま動かないエリンシアに、アイクが手を差し伸べる。まだ気持ちの整理はつかないが、残された時間はもう無い。不本意ながらもエリンシアはアイクの手を取り、ゆっくりと外の広場へと連れ出されていった。

　将としての決意を新たにした為か、それとも「仕返し」が出来て満足した為か。握られる確かな手の強さが、今は少しだけ恨めしい。




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お互い策士というか負けず嫌いというか
(2015/05/26)