六花より淡く
明日の為の軍議を終え、エリンシアは薄暗くひっそりと静まり返った空間を独り歩く。幾ら建物の中にいるとはいえ、冬の寒さは身を震え上がらせ、自然と歩みは速くなっていった。悴む指先にそっと自らの息を吹きかけ、身を固く縮ませながら、自らに宛がわれた部屋へと急ぎ向かう。
砦の先に広がるのは、冷たくも無機質な骸の数々。それは、夕刻までは確かに自分と同じように生きていた筈の、仲間達の姿だった。
僅かな灯の下、狭い階段を小走りに上って行く。砦という簡素な環境の中にあってもエリンシアには相応の部屋が与えられているが、それでもその構造上、軍議の為に使われた場所からは回廊を経由しなければ辿り着く事は出来ない。隙間から洩れ伝う冷気は尚厳しさを増し、無意識の内に上着の襟元を握り締める手に力が入った。
あの瞬間、何もかも変わってしまった。各々の誇りを賭けた異種族同士の交戦の最中、天から放たれた一閃の光は、地上に生ける者の姿を瞬く間に鋼鉄の塊へと化していった。まるで全ての時が止まってしまったかのような感覚は、夢でも空想でもない、紛う事無き現実だった。そして夜が更けた今も、それはずっと続いている。
これが、この地を創造した女神が望んだ真の意味での静寂。もっとも、女神の御心に適う者など既に潰えていたのだとすれば、人がその代償を払うのはごく自然な事だと錯覚してしまう。一種異様な空間の中、気持ちとは裏腹に胸の鼓動が揺れ動くのを感じて、エリンシアは思わず小さく頭を振った。幸いにも未だ自らはこうして意識を保ち、留まる事は出来てはいる。だが、もしもあの時外に出ていたのならば、仲間と同じように自分も石になる運命を辿っていたかもしれないのだ、と。
人の姿が失われた今の世界では、僅かな物音すら逃そうとしてはくれない。回廊を歩く靴の音が辺り一面に響き渡り、耳元を突き抜けて行く。だが、聞こえてくるのはそれだけでは無かったようだ。音の中に自分の足音以外のものが含まれている事に気付き、エリンシアの歩みがふと止まる。幾度となく繰り返される、風を切るような鋭い音。それは人が武器を振るう時に発せられる音だった。こんな遅い時間に、誰かが鍛錬でもしているのだろうか。息を潜めながら音のする方へと慎重に歩を進め、そっと柱の陰から外の様子を窺うと、近くに張り出した小さな露台の上で何かがさっと翻るのが視界に映り込んだ。見覚えのある光景に、エリンシアの表情が一瞬緊張の色に染まる。やはり思った通りの人物だった。月明かりの下、薄らと照らし出される姿にエリンシアは確信した。
見つめる視線の先で、アイクは黙々と剣を振っていた。彼の言によれば、己と剣と、独り向き合うこの時間が何より大切なのだという。そして、どうしても心が鎮まらない時は、つい熱を入れ過ぎて周囲が見えなくなってしまうのだとも。
剣を握るアイクの動きは止む事無く、耐えず続いている。まだ見ぬ脅威を予感してなのか、石にされてしまった仲間達を思っての事なのか、それとも。自分だけでは無い、今のこの不穏な状況に焦りや不安を抱いているのは、表情にこそ出さないが、きっと彼も同じなのだろう。
数刻の後、夜明けを待たずして、負の女神の采配によって分けられた三つの部隊は、それぞれ異なる道からもう一人の女神が待ち受ける場所へと出立しようとしている。そうなれば、次にお互いが会える機会はずっと先の話だ。本音を言えば、もう少しだけこの場に留まっていたいが、自分も彼も正念場を迎えようとしている身、あまり妨げになるような事は出来まい。思って、未練がましくもエリンシアは踵を返し、部屋へと戻ろうとする。
「･･････誰かいるのか？」
不意に聞こえたアイクの声に、エリンシアの心臓がどきりと大きく音を立てて跳ねた。そうしないように、と務めたつもりだったが、気配を感じさせてしまったらしい。僅かに視線を後方へと遣ると、剣を収めてこちらへ向かって来るアイクの姿が見える。
「そこにいるんだろう？ 隠れていないで、出て来たらどうなんだ？」
「
──
！」
気付かれてしまった。エリンシアは急いでその場から離れようと、反射的に駆け出していた。別段悪い事をしたという訳では無い筈だが、隠れて人様の、まして密かに恋心を抱いている者の様子を遠くから眺め、ともすれば監視しているのではと誤解されるような行為をしてしまった事に、酷く罪悪感を覚えた。姿を見られまいと、逸る胸を押さえながら懸命に逃れようとする。
「！！ 待て･･････！」
だが、そう簡単に逃してくれる筈も無く。数多の戦場を潜り抜けて来たアイクにとって、人の姿を追うなど造作無い事だった。互いの距離は瞬く間に狭まり、回廊の曲がり角で同じ位置に並ぶ形になる。後ろから肩口を強く掴まれて、エリンシアは驚き、思わず小さな悲鳴を上げた。
「なっ･･････エリンシア･･････？」
些か強かったアイクの語気が、エリンシアの姿を認めた途端にその勢いを失っていく。
「アイク様･･････」
「･･････何だ、あんただったのか」
緊張の糸が切れたからなのか、追っていた相手が自分の想定外の者だったからなのか、アイクは呆気に取られたような表情を見せていた。肩を掴まれた体勢はそのままに、エリンシアは一瞬だけアイクの方を見遣ると、気恥ずかしそうにそっと伏し目がちにする。それを、自分が無作法な振る舞いをしたが故と解釈したのか、アイクは慌ててエリンシアを捕えていた手を離し、決まり悪そうに視線を下へと俯けた。
「･･････申し訳ありません。大事な時に邪魔をしてしまって」
「いや、俺の方こそ驚かせてしまってすまなかった。どうやら少々気が立ってたみたいだ」
両者は並んで、エリンシアの部屋がある階層の廊下を歩く。先の非礼の詫びに見送らせて欲しいと、アイクから言われての事だった。無論断ったのだが、彼自身がそれでは納得出来ないからと強く請われ、結局エリンシアが折れる形となり、今の状況に至っている。
「しかし、あんたの所は随分と話し合いに時間が掛かっていたみたいだな」
「仕方の無い事です。何しろ大切なお二方をお迎えしたのですから」
「散々揉めたんだろう？ 珍しく鷹王が零してたぞ。とにかく頑固で、自分の主張を曲げないと」
エリンシアはそんな事は無いと首を横に振りつつも、苦笑いを浮かべる。隊を分けた後、それぞれで行われていた軍議に於いて、デイン王家の二人と隊を率いるティバーンとの意見は真っ二つに分かれ、陽が沈んでも尚、平行線を辿ったままだった。もっとも、隘路となっていたのは王子本人ではなく生みの母だけではあったのだが、憂いを帯びた外見とは裏腹に、決してこちらの要求を呑もうとしない気の強さに流石の鷹王も辟易してしまい、渋々譲歩する事で漸く話が纏まったのだった。
「あんたも大変だったな、板挟みにされて」
「お気遣い有難うございます。でも普段の議会に比べたら、あの程度の衝突など些細なものです」
「それなら良いんだが。その様子だと、俺が城を去ってから相当鍛えられたか？」
「ふふ、そうかもしれませんね。少しは頼もしくなりまして？」
「ああ、そうだな」
エリンシアがふっと口元を綻ばせると、アイクの硬い表情も微かに緩む。自ら意図的に仕向けたわけではなく結果的にそうなっただけではあるが、少しでもアイクと話す時間を持てる事がエリンシアにとっては嬉しかった。
歩を進める毎に、廊下を照らす松明の数が増えて行く。少しでも闇に遮られる事無く歩けるようにと、見回りに来ていた者の心遣いなのか。それは同時に、二人の為に残された時間はもう少ないという事を意味していた。
「アイク様、ここで大丈夫です。どうかお戻り下さい」
部屋までの距離があと少しとなった所で、エリンシアは歩を止め、おもむろに口を開いた。
「良いのか？」
「はい。アイク様も、ご自分のお支度があるでしょうから」
「それはそうだが･･････。最後まで見送らないのは、失礼に当たるんじゃないのか？」
「構いません。どうか私の事はお気になさらず。一緒に来て下さって、有難うございました」
アイクは納得の行かないような表情を見せたが、エリンシアは「本当に大丈夫ですから」と首を横に振って、その場を収めようとした。アイクにしてみれば、最後まで送り届けるのも途中で止めるのも似たようなものだと思っているのかもしれない。それでも、エリンシアはアイクにこれ以上自分の為に時間を割くような事はして欲しくなかった。今後、軍を進めて行くともなれば、尚の事だ。
「そうか。それならあんたの言葉に甘えさせてもらおう」
一瞬の沈黙の後、エリンシアの意を汲んでか、アイクは表情を微かに緩めると、静かに呟いた。
「アイク様、本当に有難うございました。どうぞ、お気を付けてお戻り下さい」
「ああ、エリンシアもゆっくり休んでくれ」
エリンシアは軽く会釈すると、再び自室に向かって歩き始めた。戻ったら早急に、出立の支度を整えなければならない。得体の知れない敵と戦うともなれば、一筋縄では行かないだろう。治癒の杖はいつもより多めに持って行かなければ。そんな事を独り、頭の中で巡らせる。
「エリンシア」
不意に後ろから声を掛けられ、エリンシアは慌てて考えていた事を脳裏の片隅に押しやり、そっと振り返る。アイクは先程の位置から全く動かず、じっとこちらを見つめていた。部屋に入るまで見届けなければ。そう思って、戻らずに待っているのだろうか。エリンシアは戻っても構わないと促すが、アイクは黙ったまま動こうとはしなかった。分かっている。真っ直ぐに見つめてくる瞳は、そう言いたげだった。
「アイク様、どうかされましたか？」
アイクの真意が読めず、エリンシアは小首を傾げた。アイクはエリンシアの問いには答えず、代わりに互いの距離を縮めようと近付いて来る。その表情は影に覆われて、はっきりと見る事は出来ない。何を言われるのか、僅かに身構えるエリンシアの姿を一瞥して、アイクはゆっくりと口を開いた。
「いや、今更あんたに言う必要も無いんだろうが、その･･････道中気を付けてな」
言われて、エリンシアは一瞬呆気に取られた表情を見せる。アイクがあまりに思い詰めた様子でいたものだから、てっきり深刻な話をされるかと思っていた。しかし、実際は予想していたのとは全く違う言葉だった。彼はただ純粋に、自分の事を心配してくれている。それだけのことだった。思わずエリンシアは口元を緩め、喉を震わせる音を漏れ伝わせる。
「何だ、俺は変な事でも言ったか？」
くすくすと笑うエリンシアを、アイクは怪訝そうに見下ろす。彼がそう感じてしまうのも無理はなかった。エリンシアはそっと首を振って、決して他意が無い事を伝える。
「申し訳ありません。アイク様があまりに真剣なお顔をされていたから、何をお話になるのか少し不安だったもので」
「そうだったのか。あんたを怖がらせるつもりは無かったんだが、そうさせてしまったのなら謝る」
「いいえ、構いません。寧ろ、嬉しいのですよ？ 私の事を心配して下さって」
「なら良いんだが･･････。どうも以前の感覚が抜けなくてな」
「と、仰いますと？」
「もうとっくに俺はあんたの下から離れたし、あんたは俺の手から離れた。あまり干渉すべきではないと分かってはいるつもりなんだが、ついあんたに対しては過保護になってしまうようだ」
僅かに眉を顰め、アイクは溜め息を小さく吐いた。かつて傍らにいた過去に思いを馳せているのか、それとも自らの感情の整理が付かない事に憤りのようなものを感じているのか、エリンシアには分からない。
「･･････不思議なものだな。俺達は出会ったと思えば別れ、別れたと思えばまた出会う。こんな事が起こるのは、エリンシア、あんたとだけだ」
だからこそ、余計に気になってしまうのかもしれん。そうアイクは付け加えた。
「アイク様･･････」
小さく声を漏らすエリンシアの心は、緩やかに揺らいでいた。アイクの言う事は、エリンシアも常々感じていた事だったから。傭兵団の砦で初めて出会った時、爵位を返上した時、窮地に陥った自分を救ってくれた時、様々な瞬間がエリンシアの目の前に浮かんでは消えていく。運命に翻弄されているとまでは行かずとも、何らかの強い導きの下に、自分達は何度も出会いと別れを繰り返してきた。決して偶然起きたものとは思えない。その存在がより一層気になってしまうのは、エリンシアも同じだった。
「･･････きっと、それが縁というものなのでしょうね」
「縁？」
「はい。今までの事も、こうして貴方とお話しているのも、全部意味があっての事･･････私はそう思います」
「成程な。だとしたら、あんたにとっては災難だ」
「何故ですか？」
「俺みたいな人間が相手じゃ、あんたも大変だろう？」
「え･･････そんな事、決してありません！ 私はアイク様で良かったと、心の底から思っております。寧ろ、貴方でなければ
──
」
珍しくアイクが自らを卑下するものだから、エリンシアは思わず語気を強めてしまいそうになり、慌てて口元を自らの手で塞いだ。このままでは勢いに任せて、まだ機は熟していないにもかかわらず、突拍子も無い事を口走ってしまいそうだった。普段見る事の無い威勢の良さに、流石のアイクも驚きを隠せなかったのか、呆然とした様子でエリンシアを見つめる。何てはしたないところを見せてしまったのだろう。エリンシアは俯いて、そっと己の内に反省の弁を述べた。
「･･････も、申し訳ありません。私ったら、何を勝手な事を･･････」
「いや、気にしないでくれ。あんたがそう感じてくれているのなら、別に俺も構わん」
エリンシアは恐る恐るアイクの表情を見上げるが、もうそこに吃驚の色は無かった。そうしているのかしていないのか分からない程度に、微かに口角を上げて、自分を見つめている。笑っているのだと、すぐに察しが付いた。失礼な事を言ってしまいそうになったにもかかわらず、咎められなかった事に、エリンシアはそっと胸を撫で下ろす。思えば、アイクが自分の言う事を否定する事など、ただの一度もあっただろうか。やはり、彼は自分に対して過保護なのかもしれない。最初に出会った時から変わらない、密やかなアイクの優しさに、エリンシアは安堵のような感覚を抱いていた。
「･･････すまん、余計な事を言って時間を潰してしまったな。あんたにも準備というものがあるというだろうに、引き止めるような真似をしてしまった」
「いいえ、どうかお気になさらないで下さい。こんな時でないと、なかなかゆっくりお話しする機会も無かったでしょうから」
エリンシアが微笑めば、アイクも「そうか」と静かに頷いた。夜の闇はますますその色を濃くして、残された時間を掻き消していく。決して未練が無いわけではないが、気持ちはもう互いに別の方向へと定まっていた。
「アイク様、どうかご無事で」
「ああ、あんたもな。導きの塔でまた会おう」
ごく自然にアイクの手がエリンシアの方へと伸び、エリンシアも躊躇する事無く、その手を取った。爵位返上の時には、考えられなかった光景が、そこにあった。軽く握られ、すぐに離れると、踵を返してそれぞれの場所へと戻っていく。遠のいていく互いの足音を聞きながら、それでももう振り返る事はしなかった。否、その必要も無かった。自分達は再び会う為に別れた。ただそれだけの事なのだと。
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付かず離れずの距離感こそアイエリの醍醐味
(2016/05/25)