波のように揺らめく
机上に山積みにされた書に目を通し、署名をして印を施す。ランタンの炎が小さくなり、部屋の中が大分薄暗くなってから慌てて気付いて油を注ぎ足す。作業を始めてから、何度目かの事である。そんな、半ば機械化されたような動作を、セリスは一日中続けていた。
長い時間座っていた所為か、身体中の節々が悲鳴を上げている。半分ほど書類の確認が終わった処で、やおら立ち上がると椅子から離れて背後にあった窓の方へと視線を向けた。果てしなく続く深い闇の中に、ぼんやりと月の光が浮かび上がっている。明日は戦友達の出立の日。窓の外からは、別れを惜しむ仲間の喧騒が聞こえていた。
羨ましい、そんな事を思いつつふと視線を机上へ遣ると、否が応にも現実へと引き戻されて、セリスは小さく溜め息を吐いた。インクの入っていた小瓶の中身は無くなりかけているし、ペンの飾りの羽根はすっかり草臥れて、力無くその身を横たえていた。机の所々に付いてしまった、印を押す為の赤い蝋の跡が、作業の大変さを物語っていた。
──
セリス様もご一緒にどうですか？
送別の宴に誘われたものの、セリスは丁重にそれを断った。(それでも仲間に強引に連れて行かれて、半時ほど顔を出す羽目になったのだが)
やっと訪れた大陸全土の平和。しかし、長い間闇に支配されてきた世界には大きな傷跡が残されていた。
解放軍のリーダーとして、バーハラ王家の正当な継承者として、セリスにはやらなければならない仕事が数え切れないほど待ち受けていた。
未だ苦しみに喘いでいる民を差し置いて、勝利の余韻に浸る暇など無い。一日でも早く復興の手筈が整うように、そして新たな王国の継承者となる仲間達の公務の負担を少しでも軽く出来るように、セリスはここ数日、仕事に集中したいからと、公の場以外では滅多に人と会わないようにしていた。そんなセリスの状態を知ってか知らんでか、周囲の者も敢えて詮索するような事はしなかった。
セリスは疲れ切った表情を浮かべながら、今一度溜め息を吐いた。
目を通さなければならない書類はあと半分。夜通し続ければ、何とか明日までに終える事が出来る。
思い直して、再び作業に戻って机に向かおうとした時の事。
扉を叩く音が聞こえて、セリスの顔は自然とそちらの方へ向けられる。また新たな仕事が入ってきたのか、そんな事を考えながら、セリスは扉へと歩を進めて、重たい金属質のノブをゆっくりと回した。
「･･････兄様」
扉の外に見えた人影は、思いの外小さかった。訪ねてきた人物が臣下では無かった事に驚いて、セリスは呆気にとられたような表情を目の前の人物に見せた。
「ユリア、どうしたの。こんな時間に」
「遅くにごめんなさい、でもどうしても会って頂きたい方が」
ユリアは促すように、彼女の後ろにいる人物の方を向く。
視線を向けられて、その人物は強張った表情でじっと俯いた。その姿を見て、セリスの表情が同じように強張った。
「ティニー･･････」
名前を呼ばれてもティニーは返事一つせず、ユリアの陰に隠れるようにして微動だにせず立ち尽くしていた。
「･･････言った筈だ、私的な接見は認めないと」
「兄様、私がお連れしたのです。咎なら私に」
公の場以外では誰とも会わない
──
その命令は恋人であるティニーにも遵守するよう伝えられていた。命を受けてから、ティニーも他の者と同じようにセリスと言葉を交わす事は無かった。それなのに、何故今彼女がこの場に居るのか、セリスにははっきりとその理由が分かっていた。
ティニーがユリアに懇願したのか、それともユリアの言う通り、彼女がティニーをここへ連れて来たのか。
どちらを責めたにせよ、このまま事態が収束するようには思えないし、引き返す気配は無いように思えた。
「ティニー様、どうか中へ」
返事を待たないまま、ユリアはティニーの背をそっと押して部屋の中へと促す。何としてでも、ティニーを自分の傍に置いておくつもりらしい。
見た目の儚さとは裏腹に、ユリアのはっきりとした口調と自分を見つめる鋭い視線にセリスは半ば面食らっていた。
「･･････一時だけだ」
このまま、部屋の前に居座られても困る。諦めたセリスがそう呟くと、ティニーは微かに首を縦に振って、扉の奥へと吸い込まれていった。
ティニーが部屋に入ったのを見届けて、扉を閉めようとするセリスに対して、ユリアが声を掛ける。
「兄様、どうか義姉様のお気持ちを察して下さいますよう」
「義姉」という言葉は、セリスに対するユリアなりの精一杯の皮肉の言葉だったのだろう。それでもセリスの心は大きく揺れ動いた。
セリスはばつが悪そうな表情を浮かべながら、分かっている、と小さく呟くと、ゆっくりと部屋の扉を閉めた。
セリスはティニーをソファに座らせて、書庫にあった分厚い本を手渡した。
「フリージ家に関する古い書物だ。読んでおくと良い」
本当は出立の前に渡そうと思っていた物だった。しかし、今の状態で何もさせないまま彼女を待たせる訳にもいかず、仕方なくセリスはその本をティニーに渡したのだった。
察したのか、ティニーは小さく頷くと、頁をめくり読み進めていく。その様子を見て一先ず安堵して、セリスは再び机に向かって作業の続きに取り掛かった。
仲間達は皆、愛する者を連れてそれぞれの国へと戻って行く。しかし、ティニーがフリージ家を継ぐと決まった以上、セリスは彼女を自分の下に留めておく事は不可能だった。
何故自分達だけが離れ離れになるのか。セリスは何度もそう思ったが、これからの世界を担う者が個人の感情に振り回される事はあってはならなかった。
一刻も早い復興と支援を民は望んでいる。今は余計な情など挟む余地など無い。それ故、セリスは敢えてティニーを自分から遠ざけさせていた。
『例え君であっても、公の場以外での接見を禁ずる。次に会うのは、見送りの時だ』
数日前、そう伝えた時のティニーの悲壮な表情は、今でもはっきり覚えている。
セリス自身、自分が酷な要求をしている事は痛いほど分かっていた。ティニーとしても、最後の最後までセリスの傍で時間を過ごしたいと望んでいただろうし、それはセリスも同じだった。
彼女は健気だった。一瞬、眼の色を澱ませたがすぐに「心得ました」ときっぱり言い切った。自分の事を第一に考えてくれているからこそ、ティニーは言う通りに従いこの数日耐えて来たのだ。
ティニーが会いに来る原因を作ったのは自分だ。それなのに、自分の事は棚に上げて彼女の非を責めようとした。自らの身勝手さにセリスは苛立ちを抑える事が出来なかった。
「･･････少し休まれては如何ですか？」
ティニーの声が聞こえて、セリスははっと我に返った。
気が付けば、ティニーは本を読むのを止めていたのか、セリスの傍らまで近付いて、その目の前に湯気の立つティーカップを差し出していた。
セリスは彼女の手からカップを受け取ると、そっと端に口付けて中の紅茶を飲み干す。
碌に水分も取らずに作業をしていた事もあり、セリスにとってティニーの気遣いはとても有り難かった。
「･･････ありがとう」
「いえ、私に出来るのはこんな事しかありませんから･･････」
空になったカップに、ティニーが持ってきたポットから再び紅茶を注ぐ。
二杯目の紅茶を口に含みながら、そういえば作業が捗らない時はいつもティニーがこうして自分を気遣ってくれていた。そんな事をセリスは思い出していた。そして、その気遣いに触れられるのも今日が最後だという事も。
「･･････明日はいつ出立するんだ？」
「お昼を少し過ぎた頃に。先にお兄様を見送りたいと思っておりましたので」
「そうか･･････」
セリスのカップが空いたのを確認すると、ティニーは片付けをする為にその場から離れて行った。
優しい言葉を掛けたかったのに、下らない質問しか投げ掛けられない自分が情けないとセリスは思った。
作業の手も覚束ないまま、ティニーの姿をゆっくりと目で追う。表情は後ろからでは余り良く認識出来なかったが、彼女が今何を思っているのか気になって、セリスの胸中は穏やかでは無かった。
「･･････セリス様は強い方ですね」
不意にティニーの声がセリスの耳に飛び込んできた。
その声に覇気は無く、必死に感情を押し殺しているのが伝わってきた。
「･･････セリス様のように強く在りたいと、ずっと思っていました。でも、私は自分の気持ちを抑えれずにここへ来てしまいました。例え貴方が望んでいないと分かっていても、自分を偽る事は出来ませんでした」
──
強い？ 自分が？
ティニーの言葉に、セリスは動揺を隠す事が出来なかった。
彼女を遠ざけたのは自分だ。それは、一刻も早い復興を、という明確な理由があった筈だからだ。
でも、それは都合の良い嘘だったのではないか？
どう足掻いても、いずれは訪れるティニーとの別れを、自分はどう感じていた？
本当の理由は別の処に、それももっと醜劣な感情の中にあるのではないか？
尤もらしい理由をつけて、強い自分という虚像を見せたかっただけではないのか？
ああ、そうか。そこまで考えて、セリスはやっと理解した。
現実を変えられないのならいっそ、距離を置いて慣れてしまった方が良かったのではないか。そうすれば深く傷つく事は無い筈だった。しかし、今になって考えれば、ティニーと離れる事を何よりも恐れていたのは自分だった。彼女が傍にいない、そう考えるだけで堪らなく不安だった。
今頃になって自分の建前と本音の矛盾に気付いてしまった。その事を知ったら、ティニーはどう感じるだろうか。そんな思考が脳裏を過ぎったが、それでも自らを止める事は出来ないとセリスは思った。
セリスは椅子から立ち上がるとティニーのいる方へ向って歩を進めた。
頭で考えるより先に、体が動いていた。無性にティニーに触れたくて堪らなかった。セリスがティニーの傍まで近寄るのと、ティニーが棚の中にカップを仕舞ってこちらを向いたのはほぼ同時だった。
不意に目の前にセリスの姿が飛び込んできて、ティニーは吃驚した様子でセリスを見上げた。
「ティニー」
はっきりとした口調でセリスはティニーの名前を呼んで、両の肩口をしっかりと掴む。唐突なセリスの行動に、ティニーは困惑したような表情を見せた。
ティニーの身体は小刻みに震えていた。それでも何とか平静を装うようにする姿が、何とも痛々しかった。
こんな姿を見たいが為に、自分は彼女を傷付けたのか。セリスの理性はぷつりと音を立てるように切れていった。
限界だった。セリスはティニーの身体を引き寄せると、力ずくで抱き締めた。
セリス様、苦しそうに名前を呼ぶティニーの声が聞こえた。
久方振りに感じたティニーの体温は冷たかった。冷たいのは身体だけでは無かった。部屋の空気も、自分の体温も、お互いの感情も、全てが凍っていた。
セリスはそのままティニーの身体を壁に押し付けて、じっと彼女の澄んだ瞳を射抜くような視線で見つめる。
ティニーの口からは、か細く呼吸する音が幾度も聞こえていた。
「･･････私は愚かな人間です。命令を守る処か、貴方を惑わせてしまいました。この身は、貴方の為に在るものと思っていたのに」
堪え切れなくなったのか、ティニーの目から大粒の涙が零れて落ちていった。その目元に口付けて溢れる水滴を拭うと、華奢な身体が小さく跳ねた。
どうかお許しを。セリスに触れられて、ティニーが小さく呟いた。返事の代わりに、セリスは聞こえてきた言葉を飲み込むようにティニーの唇を塞いだ。
お互いの吐息が重なって、乾いた空間に響くのが聞こえた。
ぽっかりと空いてしまった隙間を埋めるように、セリスは何度も唇を重ね合わせた。
「･･････愚かなのは僕の方だ」
思っていた言葉は、そのまま声となって現れた。視線の先には、切なそうに自分を見つめるティニーの顔があった。きっと今、自分はティニーと同じ表情をしているのだろう、そうセリスは思った。
そして、彼女が自分の本心に気付いてしまったという事も。
「セリス様、どうか貴方の御心のままに」
震える声で、しかしはっきりとティニーが言った。
もうこれ以上我慢する必要など無かった。
セリスは再びティニーの身体をきつく抱き締めると、縋るように彼女の白い首筋に喰らい付いた。
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(2010/05/25)