嘘と諦念の揺籠
軍議を終えて自室に戻ってからもう相当の時間が過ぎていたと言うのに、セリスは長い事目の前にある王都バーハラへと続く景色を眺めていた。
フリージの城を制圧してからここ数日、解放軍の面々は勝利の余韻に浸る間も無く、気の抜けない日々を送っていた。遥か先にあると思われていた王都はもう目の前まで迫っている。それは即ち皇子ユリウスと、彼の率いる精鋭部隊との衝突が近いと言う事。そして、その中には彼の傍らに寄り添い力を使役する「雷神」と畏れられる女性も含まれていた。
過去に二度あったイシュタルとの接触。その中で受けた解放軍の被害は決して小さいものでは無く、そして彼女の犯して来た罪は、どんな測量を以てしても測り切れない程に膨れ上がっている。軍議の中でも当然のように、死を以て償うべきだという意見が飛び交い、気が付けばイシュタルを討つ事は解放軍の目下の標となっていた。そして、事態が変化したのはそのすぐ後の事。
──
イシュタル王女が動いたようです。偵察部隊がもたらした報告に、セリスは表面上こそ表情を崩さなかったが、胸中は穏やかでは無かった。自分達を王都に進ませない為に、彼女は死力を尽くして立ちはだかるのだろう。彼女に付き従う部隊も、並みの者では太刀打ち出来ないと聞かされている。次の戦いが今まで以上に激しくなるのは容易に想像出来た。
しかし、セリスの不安はそれだけでは無かった。心の中でずっと引っ掛かり、締め付けているもの。それはイシュタルと幼少期を共に過ごし、彼女の本質をよく知る者だった。
「セリス様」
不意に後ろから声を掛けられて、セリスは慌てて思考を止めて声の聞こえた方を振り向く。
「･･････ティニー」
突如として現れた恋人の姿に、セリスは一瞬呆気に取られたような表情を見せた。恐らく、今の自分にとって一番顔を合わせたくない人物、その当人が目の前にいるのだから、動揺するのも無理は無かった。
「明日は早いんだろう？ どうしてここへ？」
努めて冷静に、セリスはティニーに近付いて話し掛ける。
「少しだけお時間を頂けませんか？ どうしても話したい事があるのです」
「話したい事？ それは一体･･････」
「単刀直入にお聞きします。何故私を後方支援部隊に回されたのですか」
「！！」
言われてセリスの顔が強張る。軍議の後に各々に伝えられた配属先。しかし主力部隊の中にティニーの名前は無かった。ティニーが本隊から外される、それは解放軍がグランベルの国土に入ってから、初めての事だった。そして、その決断を下したのは、他ならぬセリス自身であると言う事も知っている筈だった。今まで傍に置いていた自分を引き離す、その不自然さにティニーは納得がいかないと言わんばかりの表情でセリスを見上げていた。
「･･････君を失いたくない。それだけだ」
「やはり、イシュタル姉様の事だったのですね･･････」
押し殺すような声で呟くセリスの言葉に対して、ティニーはふっと視線を下へと向けて答えた。
理不尽な仕打ちを受けて来たティニーにとって、イシュタルは救いの御手のような存在だった。それも赤の他人では無く、血の繋がった大切な従姉
──
もしティニーが本隊と行動を共にするのなら、彼女は間違い無くイシュタルの前に立ちはだかり、無意味な争いを止めようとするのだろう。そうなれば、その身が危険に曝される事など容易に想像が付いた。故に、身勝手だと思われようとも、セリスは敢えてティニーを戦場から遠ざけるような形を取っていた。
「セリス様は私を傍に置いて下さると約束して下さいました。ですが、それは嘘だったのですか？」
「嘘なんかじゃ無い。でも今度の事は勝手が違うんだ」
「勝手が違おうと、私には関係の無い事です。自分の身だって護れます。それでも駄目だと仰るのですか･･････！」
今にも泣き出しそうな表情を浮かべて、ティニーはセリスに訴えた。
セリスにもティニーの気持ちが痛い程伝わって来ているのは分かっている。ティニーの中にある大切な記憶、それを傷付けたくないと思うのはセリスとて同じ事だった。しかし、それは一個人の身勝手な願望でしか無い。現に、軍議で出された結論はセリスが密かに望んでいたものと全く逆のものだったのだから。
「僕だって君を離すのは辛い。本当は傍にいて欲しいと思ってる。でも
──
」
「認めて下さらないと･･････？」
「ティニー、イシュタル王女はもう誰にも止められない。例え君の言葉を以てしてもだ」
「･･････っ！」
言われて、ティニーの口から息の詰まるような音が聞こえた。
「それに、何を言われようと僕の決断も変わらない。彼女は
──
どんな手段を使ってでも倒す」
我ながら酷な事をよくも冷静に言えるものだ。セリスは思った。そして、動揺するティニーを見ながら、果たして今の言葉は伝えて良かったのか、と言う事も。
ティニーの言葉はイシュタルには届かない。それは、言ってしまえば彼女がこの戦いでは無意味な存在だと言う事。そうなれば、ティニーが己の無力さに苛まれるのは想像に難くない。ましてや、肉親であるイシュタルが欠ける瞬間を目の当たりにするのであれば、彼女は立ち直る事すら出来なくなるかもしれない。
考えるだけでぞっとするような話
──
セリスはそんな恋人の姿など、想像したくは無かった。
ティニーの心は今も傷付いている。他ならぬ自分自身の所為で。しかし、その死を目の当たりにするか否かで、受ける衝撃は違うものになる筈だとセリスは思っていた。イシュタルを討つ事実が変えられないのなら、せめてティニーの心の負担が少しでも増えないようにしたかった。理不尽だと思われようと、自分の下した決断の結果がどれほど酷いものになろうと、出来る限りティニーを護りたかった。
「セリス様･･････」
力の無い声と共に、ティニーの両の瞳から大粒の涙が零れ落ちていく。果たしてそれは厳しい現実を突き付けた自分への無言の叱責か、それとも抵抗か。労ろうとして伸ばした手は、ティニーの肩に触れる前にその動きを止めた。今の彼女にとって、その行動は逆効果になるかもしれなかったからだ。
「･･････何故なのですか」
何故そこまで非情になるのか、ティニーの言葉をそう解釈して、セリスはばつが悪そうに視線を逸らした。しかし次に聞こえた言葉は、彼の想像には無いものだった。
「何故セリス様が、そこまでご自身を追い詰めなくてはならないのですか」
「え･･････？」
ティニーの真意が読めず、セリスは怪訝そうな表情でティニーを見つめる。同時にふわりと羽が舞い降りるような感覚に気付いて、そちらへと意識を遣れば、ティニーが自分にしがみ付いて震えているのが分かった。
「セリス様が姉様と私の事を考えて下さっている事は、充分に承知しています。ですが、私にはセリス様お一人に任せる事など出来ません」
「ティニー、それは一体･･････」
「私は貴方が苦しむ姿を見たくは無いのです･･････」
服の裾を握り締めて縋り付くティニーの指先に、より一層の力が込められる。目に涙を湛えたまま、それでも視線だけは逸らすまいと必死に喰らい付く緋色の瞳に、セリスは密かに吃驚していた。
「セリス様、私は例えどんな結果になろうとも、貴方を恨む事など決してありません」
「どんな結果になろうとも･･････？」
「･･････はい。それに、私も聖戦士の血を継ぐ者の一人です。
ならばその末裔として、我がフリージ家が犯して来た罪を償う瞬間を、
この目で見届けなければなりません」
「
──
！！」
ティニーの言葉に、セリスの胸中は今までに無い程に大きく揺れ動いた。
どんな結果になろうともセリスを恨む事など無い。そうティニーは言った。即ちそれは、既に彼女にはイシュタルを失う覚悟が出来ていると言う事。だがそれだけでは無い。ティニーは己の事よりも、指揮官である自分に降り掛かるであろう苦しみを憂いている。これから先に待ち受ける心の痛みはティニーの方が深いのにも関わらず、彼女が望んだのはセリスの予想と全く対を為すものだった。
「セリス様、どうか躊躇わないで下さい。そして姉様を
──
」
「ティニー、もう良い･･････！」
ティニーが言い終わらないうちに、セリスは遮るように縋り付く細身の身体をきつく抱き締めた。
彼女の口から「イシュタルを殺せ」などと、そんな恐ろしい言葉など聞きたくなかった。
「もう良いから･･････」
胸の中でティニーが苦しそうに息をするのが聞こえて来る。しかし、それでもセリスは抱き締める腕の力を緩めようとはしなかった。
「セリス様･･････」
か細くも愛おしそうに、ティニーはセリスの名前を呼んだ。
彼女自身、何としてもイシュタルを救いたいと言う思いがセリスにある事は分かっていた。しかし、大陸の命運を掛けた戦いに一個人の感情が介入する隙間など、今はもう残されてはいない。
そしてそれはティニーにとっても同じ事だった。セリスとイシュタル、両者を天秤に掛けた時、どちらにその思いを傾けるべきか。迷いはあれど、それでも辿り着く結論は一つだった。
「貴方になら幾ら傷付けられても厭いません･･････」
イシュタルがユリウスの傍らから離れられないように、自らの信念を捨てられないように、自分も同じようにセリスと共に歩み、この大陸の行く末を見守る道以外は考えられなかった。
「ごめん、ティニー」
セリスの口から出たのは、己の無力さから来る謝罪の言葉だった。
怖かった。ティニーを失う事が。そしてもう一つ、セリスが恐れていた事。それはイシュタルを失った後、ティニーが自分に失望して離れてしまうのでは無いかという危機感だった。しかし、ティニーはセリスを責める処か逆にその心身さえ案じて
──
彼女の中にある強さと気高さに、セリスは愕然とした。
聖戦士の末裔としての責務を果たし、互いに受ける傷を共有する事、それが一番の望みだとティニーは言った。もし自分がティニーの事を大切に想うのなら、導き出される答えははっきり見えている
。
「･･････一緒に来て欲しい」
もうティニーを遠ざける理由は何処にも無い。押し殺していた胸の内を弱々しく吐露すれば、呼応はすぐに返って来た。
「はい、どうかセリス様のお望み通りに･･････」
穢れ切った世界には、綺麗事など最早通用しないのかもしれない。
例え数多の犠牲を生み出そうとも、残される傷がどれ程深くなろうとも、その先にある道が正しいものであるのなら、今はただじっと耐え、乗り越えて行くしか無い。
「終わらせよう、何もかも」
そして彼女を苦痛の中に閉じ込めるのも、これが最後だ。
誓いにも似た言葉に、ティニーはしっかりと頷いてセリスの思いを受け止めた。
その手に力と希望を携えて、運命の中に投げ出された者達は進み往く。
不確かな足取りで、信じた道の先の、たった一つの結末を見届ける為に。
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セリティニを語る上で、対イシュタルは避けては通れない道だったので書いてみたというお話
自分の書くセリスは不器用な人だなあ･･････とつくづく思いました
(2010/07/29)