Aneliti brevi di foglie
ベグニオン帝都シエネの地に足を踏み入れてからというもの、エリンシアは気の休まる暇が無かった。
連日行われる、神使サナキとの会合や上級貴族との社交会。クリミア再興の為にはベグニオンの支援が必要不可欠とはいえ、毎日毎日慣れない環境の中、サナキとの会合はともかくとして、果たして意味のある事なのか疑問を抱かざるを得ない人との交わりに、すっかり体力も気力も奪われてしまっていた。
大神殿マナイルに設けられた広い庭園。神殿の中心から離れたその場所に、エリンシアは一人そっと座り込んで、木の幹に己の体重を預けていた。
この後も、再び人と会わなければならない予定が組み込まれている。しかし、石造りの窮屈な空間の中ばかりで過ごして来た反動からか、エリンシアは無性に外の景色を見たくて堪らなかった。僅かに空いた時間を見付け、逃れるようにして今の場所に落ち着いたのは、今から半時程前の事。
眼前に広がるのは、何処までも続くような緑の絨毯と彩られた花々、歴史を思わせる建造物の数々。そして、クリミアにいた時とまるで違う光景と時間の流れは、異邦者であるエリンシアを拒絶するように立ちはだかっているようにも見えた。
これが、自分の祖先の生きた土地。エリンシアは人聞きの記憶の中にしか無い曾祖母の姿を思い浮かべた。
彼女の曾祖母は、この地で立派な天馬騎士として活躍し、後にその器量を認められてクリミアへ嫁いだのだと言う。こんなにも堅苦しく、息が詰まりそうになるような環境で、よく毎日を過ごせたものだ。エリンシアは密かに感心していた。いくら自分にもベグニオンの血が流れているとはいえ、それが彼女にとってこの国に親近感を持たせる要因にはならなかった。
エリンシアの手は両の頬に触れ、緊張を解すようにくるくると円を描く。社交の場で何度も愛想笑いを繰り返しているうちに、口元が引き攣る感覚が抜けなくなってしまったらしい。恐らく、今ならどんな人に会っても、何を言われても、直ぐに作り上げた柔らかい表情を向けられるのだろう。事実、半ば莫迦にするように、物珍しく自分を見る貴族に対しても、エリンシアは表向きは動じないように振る舞う事が出来ていたのだから。
今は大事な休息の時である。せめてこの間だけでも、何も考えずにいたかった。 しかし、望郷の念とこれからの事への不安は、なかなかエリンシアを解放しようとはしてくれない。元より、離宮時代は何一つ不自由無く毎日を過ごして来たのだ。今になって、その報いが来ているだけなのかもしれない。国を再興するとは、そう言う事なのだ。思い直して、エリンシアはそっと溜め息を吐いた。
頭上を照らす陽光は高さを保ったまま。約束の時まではまだ時間がある。
エリンシアの両の瞼は、ゆっくりと彼女の視界から目の前に映るものを遮って行った。
それから少しして
──
エリンシアと同じ場所にもう一人、そこにはアイクの姿があった。
剣の鍛練中、ひっそりと抜け出すように外へと赴くエリンシアの姿を、アイクは目撃していた。この処、人と関わる事を余儀なくされていた彼女には、一人になる時間が必要なのかもしれない。最初はそう思っていた。しかし時間が経つにつれて、やはりこのままにしておくには不安だ、そんな思いがアイクの脳裏に浮かんで来て、切りの良い所で鍛錬から引き上げると、その足で今の場所まで来たのだった。
「エリンシア姫、ここにいたのか」
後ろから声を掛けるも、彼女からの応答は無い。
自分の声が聞こえなかったのか、そう思ってもう一度声を掛け、顔を覗き込む。
「エリンシア姫･･････」
固く閉じられた両の目と、規則的に聞こえて来る呼吸の微かな音。エリンシアの意識は、夢の世界へと誘われていた後だった。
アイクは困惑した。起こして連れ戻した方が良いのだろうか。しかし、あまりにも気持ち良さそうに眠る彼女の意識を、無理に覚醒させるのも酷な事だった。一寸悩んで、とりあえずもう少しだけこのままにしておこうと思った。
緊張の抜けた表情は、今までエリンシアがどれだけ張り詰めた状態でいたかを物語っていた。年相応と言うべきか、それよりも幾分幼く見えると言うべきか、亡国の王女から、ただの少女の顔に戻ったエリンシアに、アイクは安心すると同時に憤りのようなものも感じていた。
ベグニオンに入ってから、自分達はただ待たされるだけの身になり、逆にエリンシアの負担は増えている。身分と言う越えられない現実を突き付けられ、何も出来ない事がもどかしい。剣一筋で生きて来た自分にとって、それは初めて感じる屈辱と無力さだった。
雇い主であるエリンシアの為に何か役に立ちたい。そして、少しでも彼女の心労が軽くなるような、そんな頼れる存在になりたい。そう思っていた。しかし、今のエリンシアが安らげるのは眠りに落ちる瞬間だけ。その事はアイクにとって、言葉では言い表せない程に悔しかった。
不意に風が吹いて来て木々の葉がざわめく。その隣で、穏やかな顔をした瞳は閉じられたまま。
眠る白い頬に、そっと己の手が触れる。幾分の冷たさと、肌と指が吸い付くような感触に思わず息を飲んだ。そして、ほんの少しだけ痩せてしまった姿に胸の奥が疼いた。
自分とエリンシアはよく似ている。アイクは思った。親を殺され、訳も分からないまま主導者として人の前に立たなければならない。同じ境遇を持つ者同士、胸の底に燻ぶる痛みを、二人は言葉にこそ出さないが分け合っていた。違うのは、背負うものがエリンシアの方が遥かに大きいという事だった。
今、自分が持っているものは、家族に対して向けられている情愛のようなもので
──
しかしながら、必ずしも同じものとは言えない。きっと、自分にとってエリンシアと言う一人の存在は、思った以上にもっと特別なものなのだろう。だからこそ、己の不甲斐無さを余計に感じるのかもしれない。
エリンシアに対して今の自分が出来る事は何なのか
──
考えたが答えは出て来なかった。
「ん･･････」
鼻に抜けるような篭った声が聞こえて、アイクは慌ててエリンシアの方へと意識を戻す。
目覚めるのかと思ったが、彼女は少し身動いだだけで、まだ微睡みの中に留まっているようだった。重心は凭れ掛かる木の幹から外れて、僅かな力を加えれば横に倒れてしまいそうだった。
アイクはエリンシアの隣に腰掛け、片腕で傾いた身体を抱き寄せた。初めて触れた肩は思いの外細く、支える身体は羽のように軽かった。
何も出来ないが、今はせめて彼女の隣で見守ろう。そう思った。
気が付けば、陽の光はすっかり雲に覆われて、辺りには湿ったような空気が立ち込めていた。
徐々に強まって行く風の感覚に、無愛想な顔が微かに変化した。
(雨が降らなければ良いんだがな･･････)
半身に伝わる仄かな温もりを感じながら、アイクはエリンシアの休息が何処までも安穏であるようにと願った。
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ベタな話が書きたかったんです
(2010/06/28)