時は脱ぎけりその衣を (1)

　全身に突き刺すような鋭い光を感じて、エリンシアはゆっくりと閉じていた瞼を開ける。
　先程まで空高く昇っていた筈の太陽は既に山向こうの端まで下降してきていて、今日最後の務めと言わんばかりに、燃えるような朱色を空全体に散りばめていた。
　その光景にエリンシアは慌てて伏せていた机から立ち上がると、目の前に広がった書き掛けの書類を見て溜め息を吐く。どうやら、執務の最中だというのにうっかり転寝をしてしまい、気が付いたら夕方になっていたらしい。誰かが部屋を訪ねればすぐにでも起きたというのに、エリンシアが人の気配を感じなかったのは側近が誰も来なかったからなのか、それとも見逃してくれていたからなのか。もし眠っている所を見られたとしたら、自分は何て事をしてしまったのだろう。エリンシアは自分に対して心底呆れ、片手を額に当てて今一度大きな溜め息を吐いた。

「ああ、起きたんだな」

　言われて、エリンシアの目の前に、黒い大きな影が伸びてくる。それに気付いてふと上を見上げると、夕日を背に声の主が自分を見つめているのが分かった。

「！！　アイクさ･･････」

　見覚えのある背格好と出で立ちに思わず声をあげそうになるも、開き掛けた口を手で塞がれてエリンシアは益々慌ててしまう。

「すまん、驚かせてしまったな」

　目の前の人物 ── アイクは、ほんの少しだけ口角を上げて表情を崩した。
　そういえば。エリンシアは、今日アイクが自分の下を訪ねてくる日であった事を思い出した。そこでやっと落ち着きを取り戻して、首を横に振り、大丈夫ですから、と呟くと、口を塞がれていた手はそっとどけられた。

「･･････先程到着されたのですか？」

　おずおずと訊ねると、アイクの口からは吃驚するような答えが返ってきた。

「いや、半時前にはもうここにいたが」
「えっ･･････」

　── 半時前。という事は、エリンシアが眠りについていた時、アイクは既に部屋に入っていたという事になる。

「起こしては悪いと思ったんだが。余計な気遣いだったのなら謝る」

　余計な気遣い、その言葉にエリンシアの顔から血の気がさっと引いていく。
　間違いなく、アイクは自分が眠ってしまっていた所を見ていた。それも、執務を中途半端に放り出した無防備な状態のままで。にも関わらず、アイクはずっと今まで邪魔にならないように物音一つ立てず、自分が起きるのを待っていたのだ。
　一国の主が客人の前で何て無礼な事を。自らの責任とはいえ、エリンシアは軽く眩暈を覚えた。

「申し訳ありません･･････。私の方こそ、アイク様にお気を遣わせてしまって」
「無礼だったのは俺の方だ。エリンシアが気にする必要など無いさ」

　エリンシアの気持ちを知ってか知らずか、アイクはこれ以上話を伸ばそうとはしなかった。

「さて、今日は何から話せば良い？」

　アイクは慣れた様子で、接見用のソファに座るとエリンシアを手招いた。
　アイクがエリンシアに会いに来ると、必ず彼は旅の土産話を持ってくる。豪華な装飾が施されたその場所はアイクがいつも話をする時の定位置だったが、世界を放浪するアイクとは全く対照的で、その不釣り合いさにエリンシアは少しだけ顔の表情を緩めた。


　女神との戦いからおよそ月二つ。公務に忙殺されるエリンシアの下を、アイクが訪ねて来たのはその頃だった。本来なら必要以外の接見は認められてはいなかったが、周囲が気を利かせて機会を持たせてくれた。

「世界を周って見て来ようと思う」

　話の中でアイクはエリンシアにそう言った。野に在るべき、何とも彼らしい生き方 ── 玉座から動く事が出来ないのは国を治める者の宿命とはいえ、エリンシアは自由奔放に生きられるアイクが羨ましくてたまらなかった。
　どうか、お気を付けて。努めて冷静に、エリンシアは旅の無事を祈った。それでもその胸中は震えていた。見透かされていたのだろうか、エリンシアに対してアイクはこうも言った。

「いつかまた会いに来る。その時は俺の見たもの全てをあんたに話そう」

　アイクの言葉はエリンシアにとって嬉しいものだったが、それでも信じる事は出来なかった。気持ちが沈んでいる自分を慰める為に、彼は嘘を吐いたのだ。私情を挟まないように、そして余計な期待を持たないように、そう自分に言い聞かせていた。しかし数ヶ月後、本当にアイクはクリミアに帰って来たのだ。


　最初の再会は今でも思い出すだけで冷や汗が出そうになる。私室の外から聞こえてくる、小石が当たるような堅い音に気付いて、不審に思ったエリンシアが傍まで近寄ると、窓辺にはアイクが立っていた。
　驚かせてすまなかった。開口一番にアイクはそう言った。エリンシアは、まさかアイクが本当に戻って来るとは思わなかったし、いきなり窓の外から訪問してくるとは想像も付かなかった。ただただ戸惑うばかりで、最初は夢を見ているのではと疑った程だった。

「いついらっしゃるか教えて頂ければ、迎えの者を用意したのですが･･････」

　公の客人として丁重に迎えたいと思ってエリンシアはそう話すも、アイクは気にも留めていない様子だった。

「俺はもう爵位も何も持たない、ただの人だ。そこまでして貰う義理も無い」

　アイクが貴族の風習を嫌っているのはエリンシアもよく知っている。故に、強要してもアイクは首を縦には振らなかっただろう。アイクにしてみれば、用があるのはエリンシアただ一人だったので、それならば直接彼女の下を訪ねる方が合理的だったとも言える。そのやり方はともかくとして。

　アイクは見たもの全てを話す、という約束の通り、旅先であった様々な事を話してくれた。その話は、どんな吟遊詩人の物語よりも期待を持たせてくれるものばかりだった。もう貴族社会の中でしか生きて行けなくなってしまったエリンシアにとって、まだ見ぬ世界の話は新鮮だった。少ない言葉一つ一つの中に、アイクの見て来た世界をエリンシアは想像した。ただ話すのをじっと聞いているだけなのに、その瞬間は一服の清涼剤のようだった。

「また来ても良いか？」

　ひとしきり話した後、若干の間を置いてアイクが尋ねてきた。

　エリンシアは一瞬迷った。本来なら、アイクのしている事は厳しく追及されるべき行為である。アイクの事を思えば、これ以上彼を危険な目に合わせる事は避けたかった。しかし、その好意を無碍に断る事も出来ず、考えた末にエリンシアは言った。

「貴方が望むのならば、私はいつでも歓迎致します」
「そうか」

　エリンシアの答えに、アイクは少しだけ表情を崩した。普通の人なら見逃してしまう変化だが、間近でアイクを見てきたエリンシアは笑っているのだとすぐに理解出来た。

　帰り際、アイクは再び窓から外へ出ようとするのでエリンシアは慌ててそれを止め、私室に直接通じる隠し通路がある事を伝えた。しかし、元々は何かあった時に使われる非常用の通路であり、その存在は主であるエリンシアとその周りにいるごく僅かな臣下にしか知らされていない。当然アイクが疑問に思わない筈は無かった。しかし、彼の身の安全を考えればこれが最良の選択だった。

「そんな大事な事を俺に教えて大丈夫なのか？」
「きっと、アイク様だからこそ、伝えたかったのです」

　エリンシアの曖昧な答えにアイクは首を傾げたが、それでも、あんたが困るのならそうしよう、と承諾した。

「今度来る時は必ず報せを入れる。それまで待っていて欲しい」

　立ち去る前、アイクが残した言葉にエリンシアの胸中は大きく揺れ動いた。

　アイクを見送ってから、エリンシアは石造りの壁に凭れ掛かり、興奮冷めやらぬまま大きく溜め息を吐いた。
　彼は本当に会いに来てくれた。正にそれは奇跡のような時間だった。思い出すだけで、アイクの声が鮮明に聞こえてきた。
　それと同時に、エリンシアは悲しくなった。国を背負う者が私情に流されるなど以ての外である。 この身は、クリミアと民の為にあるのだから ── そう自分に言い聞かせてきたのに、その思いは脆くも崩れ去った。「待っていて欲しい」という言葉に、大きな期待を寄せてしまう自分がいた。最早アイクと自分を結び付けるものは何も無いのにも関わらず、その先にあるものを望んでいた。考えれば考えるほど心は痛みを増して、 胸が張り裂けそうだった。

（･･････どうして）

　叶わぬ願いだと分かり切っているのに、溢れてくる気持ちを抑える事は出来ず、エリンシアの目からは一筋の涙が頬を伝った。


　それから更に時は過ぎ、エリンシアの下には伝書鳩の手紙が届いた。すっかり皺の寄った羊皮紙には、書き殴ったような筆跡で数字だけが書かれていた。数字は、次に来るおおよその日時を示していた。
　手紙の通り、アイクはその時間に再びやって来た。今度は長旅だったのか、アイクの表情には若干疲労が見えていた。気になって、エリンシアは休んではどうかと促し、私室の一角にある寝台の上でアイクは長いこと眠った。いつまでも眠り続けるアイクをエリンシアはそっと見守り続けた。そして、二度目の再会はそれで終わってしまった。

「･･････すまなかった。あんたの好意に甘えてしまったな」

　目覚めて、アイクは真っ先にエリンシアに詫びの言葉を入れた。エリンシアも本当は前のように話を聞きたかったが、アイクに無理はさせられないと、責める事をしなかった。

「お気になさらないで下さい。相当お疲れのようでしたから」
「お陰で大分楽になった。次に来る時はもう少しだけ時間を多く取れるようにしよう」
「･･････それなら今度はお食事も用意した方が宜しいでしょうか？」

　今思えば、本当に大胆な発言をしてしまった。
　無意識のうちに、自分の思いが言葉となって出てしまっていた。言ってしまってから、エリンシアははっと我に返った。

「あ、あの･･････申し訳ありません。アイク様が必要無いのであれば･･････」

　何てはしたない事を。慌てて先の発言を撤回しようとするも、アイクはあっさりその提案を受け入れてしまった。

「･･････そうだな、それも悪くない。期待させて貰おう」

　そんな言い方をされてしまっては、エリンシアもただ頷く事しか出来なかった。


　手紙を貰い、出迎え、会食の場を持ち、話を聞いて、共に眠り、次の約束を取り交わして別れる。そんな二人の奇妙な関係はここから始まった。

　ある時、アイクが珍しく花を数輪携えて、エリンシアの好きな花だろう、と土産代わりに渡してくれた。それはエリンシアがまだグレイル傭兵団に匿われていた時、道中で見つけた名も知らぬ小さな花だったが、ひっそりと咲くその姿は強く印象に残っていた。エリンシアが、覚えていて下さったのですか、と訊ねると、アイクはフェール伯の助言に従っただけだと言った。

「女性に会うというのに、手ぶらとは些か感心しませんな、だとか何とか言われたんだが、俺にはよく分からん」

　アイクの言葉にエリンシアは卒倒しそうになった。二人の事はエリンシアに近しい者にも話してはいなかった筈なのに、どうやら気付かれてしまっていたらしい。どこから情報を得たのかエリンシアは気になり、後になってルキノにこっそり尋ねると、以前から彼の姿を見て知っていたと聞かされた。見回りをしていた時とアイクが訪れた時が偶然にも一致した事があり、勘の良い彼女はすぐに事態を察し、黙認していたのだと言う。

「･･････呆れているのでしょう？　私の身勝手故に、貴女方を巻き込んで」
「私達の望みは、エリンシア様の幸せです。妨げになるような事は致しませんから、どうかお気になさらず」

　立腹しているのではないかと心配になって恐る恐る訊ねるも、その返事はエリンシアにとって意外なものだった。追究されずに済んでほっとしたものの、エリンシアの胸中には複雑な気持ちが湧き上がっていた。そして、臣下の観察眼の鋭さに頭を抱えずにはいられなかった。


　アイクはエリンシアとの関係は、付かず離れずを保ったままだった。大きな変化があったとすれば、「移動するのが面倒だから」とエリンシアの寝台の隣に敷布を持って来て、寝る場所を移動させた事くらいだ。それでもエリンシアにとっては、かなり衝撃を受けるような変化だったのだが。
　互いの物理的な距離は近くなったが、アイクはエリンシアには触れようともせず、かといって離れるわけでも無い。他者からすれば逢瀬にしか見えないこの一連の行為を、アイクはどう思っているのだろうか。エリンシアは疑問を持たずにはいられなかった。しかし、聞いてしまえば今の関係が崩れてしまう恐れもあった。もし彼の姿を見る事が出来なくなったら。彼の声を聞く事が出来なくなったら。彼と同じ時間を共有する事が出来なくなったら。考えるだけで怖くてたまらなかった。

　きっとアイクは故郷であるクリミアを思って、自分と会ってくれているのだ。エリンシアはアイクとの関わりの中でそう思うようになった。アイクの話には、反乱の火種になりそうなものも含まれていた。どんな密偵よりも早く正確な情報には大いに助けられていたし、実際油断は禁物だった。漸く情勢が落ち着いて来たとは言え、エリンシアの目の届かない所では未だに諍いが絶えなかった。
　大切な仲間と共に育った場所だからこそ、彼はクリミアの地が再び荒らされないよう願っている。そして、自分がまだ王として未熟であるが故に、護衛していた時の名残で様子を見に来るのかもしれない。そんな風にも考えられた。
　もしエリンシアが真の意味で王としての器を手に入れたのなら、アイクは務めを終えて去って行くのだろう。自らの思うままに生きる、その望み通りの道を歩むのだろう。そして人伝に彼の武勇伝と噂話を聞き、彼をよく知る者同士で懐かしむのだろう。ならば、せめてその時が来るまで、最後にアイクを見送る瞬間までは、エリンシアは余計な思慮を挟みたくは無かった。

　何故会いに来て下さるのですか ── 胸に秘めた思いが言葉となって出て来る事は、遂に無かった。



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