黙する絆の交差
その感覚は飢えと渇きにも似ていた。
接見用の机の上に乗せた手を堅く握り締めて、細やかな装飾と白地の大理石で眩く光るその場所とは対照的に、エリンシアの心は暗く影を落としていた。
焦点の合わない目で、眼前に置かれる褪せた一枚の紙をぼんやりと見ながら、思考する。己の無力さと脆弱さを。
エリンシアがクリミアの王位に就いてから、二年半の時が過ぎようとしていた。
先のデイン＝クリミア戦争で残された傷痕は深く、即位したその日からエリンシアは休む間も無く、クリミア再興の為に奔走する日々を余儀なくされていた。慣れない王政に加え、国の主たる者達
──
嘗ての仕来たりや伝統を頑なに守ろうとする
──
からの、非難にも似たような叱責。良かれと思って定例会議で発案を申し出ても、「前例が無い」だとか「クリミアと言う国がどういうものなのか理解していない」などと、一蹴されたのは一度や二度だけではない。
否、それだけならまだ、自分の中の問題として受け止められるから良い方なのだ。しかし、クリミア貴族達の矛先はエリンシアだけに留まらなかった。
──
たかだか一つ功績を残しただけで、それが王宮に留まる理由になるのか。
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平民の出自で我々と同じ場所に立とうなど、礼儀に反するにも程がある。
──
女王に取り入って、行く行くはその座を自らが奪おうとしているのではないか。
心無い言葉と侮蔑、そして根拠の無い言い掛かり。燻ぶる不満は誰に対して向けられるものなのか、それがエリンシアの重荷となる事も承知の上で
──
深く考えずとも直ぐに理解出来た。
「言いたい奴には、言わせておけば良いんだ」
対象となっている筈の当の本人は、表情一つ変えず、気にする風でもなかった。それが彼らの発言に益々拍車を掛ける事になるとも知らずに。
何も言い返さず、動じないアイクに対して、貴族達の声は徐々に膨れ上がって行き、気が付けば陰でこそこそと呟かれていた言葉は、堂々と公の場にも上がるようになっていた。
何とかして止めさせなければ。そう思った瞬間は何度もあったが、エリンシアもまた彼らの非難の対象者だった。そして、それを収束する力も、自分はまだ持ち合わせてはいなかった。故に、止めようとしてもその機をずっと逸してしまっていた。
アイクの強さに甘えたまま、解決する方法を見出せないまま、もたもたしている内に月日はあっという間に流れて行き、長い時の中で事態は最早取り返しの付かない所まで進んでしまった。
その時は突如としてやってきた。最初に話を切り出したのは、アイクの方だった。
俺はもうあんたの力にはなれそうにない
──
目の前に突き付けられた爵位返上の意。しかし、エリンシアは思ったよりも自分が衝撃を受けない事に、密かに驚いていた。恐らく、いつかはこうなる日が来る事など、とうの昔に分かっていたのかもしれない。そして、あまりにも長く現実から目を背けていたという事も。
エリンシアにとって、力とはアイクそのものだった。時に労り、時に励まし、ずっとその傍らでアイクはエリンシアの支えとなっていた。しかし、その本人が限界だと訴えているという事は、積もり積もったものが噴き出す寸前まで来てしまっているという事。
「このままではあんたに余計な負担が増えてしまう。それに
──
」
アイクの訴えをエリンシアは制止させて、最後まで聞こうとはしなかった。聞かずとも、彼の主張したい事は分かっていた。
「･･････どうかこれからは、アイク様ご自身の為に生きて下さい」
もっと伝えなければならない言葉が、思いが、エリンシアには山ほどある筈だった。しかし今のアイクにとって、それはもう意味を為さない。様々な思考を巡らせてエリンシアが出した答えは、国を統べる者としての決断だった。
王宮と外の世界を繋ぐ場所が、俄にざわつき始める。虚ろな目をしたまま微動だにせず、エリンシアは今一度思案する。
帰さなければならない。彼の者を、在るべき場所へと。
目の前に薄らと浮かぶ自分の名前とアイクの名前。それは依頼主として初めて契約を結んだ時の書。本来ならば戦争が終結した時点で破棄すべき物であったにもかかわらず、クリミアが充分に再興されてからで構わないと、アイクからは言われていた。そのまま、雇い主と請負人という関係に甘えて、長い事彼を王宮という窮屈な場所に縛り付けてしまっていたように思う。望まずして得た地位と名誉、そして一国の軍を率いる者としての手腕への期待。アイクにとって重荷になるものを、エリンシアは契約という名の下にずっと与え続けていた気がした。
もっと自分に政の知識があったら、もっと精神的に強ければ、こんな事態にはならなかったのだろうか。もし先の戦争で、王都が落ちた時に駆け付けたのがアイクでなかったとしたら
──
しかし、今のクリミアは彼を抜きにして語る事など出来はしない。そして、そうやって苦悶するのも今日が最後だ。
「エリンシア様」
不意に声を掛けられて、慌てて意識を今在る場所へと戻す。見上げた先には、姉妹同然のように育った家臣の姿と、その後ろにもう一人。一瞬視線が合って、片方の人物は殆ど見分けが付かないが
──
互いに破顔する。初めて会った時から変わらないその表情に、エリンシアは少しだけ安堵した。
「忙しい時にすまない。だが、挨拶くらいはしておきたかったんだ」
接見室に残されたのは二人きり。最初に口を開いたのはアイクだった。
「どうかお気になさらず。私の方こそ、アイク様に来て頂けるなんて思ってもいませんでした」
長く王宮にいても、貴族としての振る舞いと礼儀は結局身に付かぬままだった。それでも、アイクの義理堅さはエリンシアにとって先のもの以上に価値のある事だった。上辺だけのものではなく、心そのものがアイクの中にはあった。
「何時頃ここを発たれるのですか？」
「この話が終わったら直ぐにでも。団の連中を待たせる訳にはいかないからな」
「そうですか･･････」
直ぐにでも。その言葉に、城門付近から聞こえて来る人々の喧騒が一際大きくなったような気がした。
脳裏に浮かぶのは、嘗ての仲間であり協力者達。特にはっきりと思い起こすのは、冷徹な黒髪の軍師と憎まれ口を叩く赤い髪の射手の姿。恐らくは、早く王宮を去りたいと思っている彼らの反対を押し切って、アイクはこの場に居てくれているのだろう。
「アイク様には本当に感謝しております。貴方のお陰で、クリミアはここまで蘇る事が出来ました」
「礼を言いたいのは俺の方だ。あんたと出会わなかったら、国を治める者達の苦労など何も知らないままだったからな」
それぞれが口にし合うのは、互いの存在の大切さと成長の証。二人だけの時間も、そう長くは残されてはいない。交わす言葉は少なくとも、きっと言わんとしている事は充分に伝わっている筈だった。
「クリミアはきっと良い国になる」
静かだが力強いアイクの声。その言葉にエリンシアもはっきりと首を縦に振った。この先に待ち受ける未来など誰も分かる筈は無いのに、アイクに言われれば確信が持てるような気がしてしまうのだ。
「有難うございます･･････。そのお言葉があれば、きっとどんな事も乗り越えて行けます」
そう、乗り越えなければならない。今度は自分一人の力で。一つに繋がっていた道は、奇しき運命に導かれて再び二つに分かれようとしている。今こそ全てを終わらせ、新しい道へと歩み始める時だ。エリンシアは自分を落ち着かせるように一度だけ静かに息を深く吐き出すと、決心して口を開いた。
「アイク様、これをお持ち下さい」
机の上に置かれたままだった契約書を手に取り、アイクの方へと差し出す。
「エリンシア、これは･･････」
目の前に差し出されたものに、少しだけアイクの表情が揺れたような気がした。アイク自身、この時まで彼女の手元に残されているとは思ってもいなかったのだろう。
「私にとって、貴方への最後の『依頼』なのです･･････。聞き届けて下さいますか？」
「『依頼』？ どう言う事だ？」
「これを破棄して頂きたいのです。私の代わりに」
普通なら雇われる側から契約を破棄する事など有り得ない。しかし、エリンシアはどうしても自分から互いの関係を断ち切る事は出来なかった。例え身勝手だと思われたとしても、その結末はアイク自身の手で見届けて欲しかった。
「貴方の自由は、ご自身の手で掴んで下さい」
そうすれば、互いに後腐れ無く契約を終わらせる事が出来る。そう願って、エリンシアは今一度アイクの目の前に薄手の紙を差し出す。
アイクは腑に落ちないような表情を浮かべていたが、それでもエリンシアの主張が変わらないのを感じ取ったのか、分かった、と小さく呟くと、エリンシアの手から契約書を受け取った。自分の願いが聞き届けられた事に安堵して、エリンシアはほっとしたように口元を緩める。
「どうか、貴方の益々のご活躍をお祈りしております」
「ああ、あんたも元気でな」
遂に訪れた、別れの時。せめて最後は出来る限り心穏やかに見送りたい、そう思って精一杯の笑みをアイクに向かって浮かべようとして
──
不意に現れた光景を見て、エリンシアの表情は自分がしようとしていたものとは逆に、無意識のうちに緊張で強張っていた。
目の前に差し出された大きな手の平。そして真っ直ぐに自分を見下ろす、海よりも深い蒼。記憶の中から呼び起こされる光景と、眼前に広がるアイクの姿と、二つの景色がエリンシアの視界の中で同時に重なった。
固い表情でアイクを見つめたまま、エリンシアは身動きを取る事が出来なかった。この手を取ってはいけない、本能的にそう感じた。
嘗ての光景
──
即位式で差し出された手は、クリミア再興への第一歩を踏み出す架け橋のようなものだった。橋は、民衆の期待と、不安に押し潰されそうになる自分と、分かたれていた道を一つに繋ぎ、迷う事が無いように真っ直ぐにエリンシアを導いてくれた。しかし、その橋を渡りきった今。これからはその手に頼る事無く、前へと進まなければならない。今ここでアイクの手に触れてしまえば、再びその強さに縋ってしまいそうになる。
自ら決意したものが崩れるのを恐れて、エリンシアはアイクから視線を逸らすと、そっと後ろを向いて呟いた。
「もうお戻り下さい。皆様が待っていますから･･････」
それは、エリンシアがアイクに対して初めて見せた拒絶かもしれなかった。予想外の行動にアイクの表情は微かに曇るも、エリンシアがその変化を見る事は出来ない。一瞬の間を置いて、ああ、と短く頷くアイクの声が聞こえただけだった。
徐々に遠のいていく、靴と固い床のぶつかる音。そして鈍く軋む木と、金属質の留め金の重なり合う音。部屋に残されたのはたった一人。
「
──
･･････っ！」
胸の奥底から湧き上がって来る感情に、エリンシアは思わず口元を押さえた。耐える必要が無くなったその瞬間に箍はその役目を放棄し、琥珀色の瞳からは止め処無く涙が溢れて、光の筋を作って行く。
何を悲しむ事があろうか。全て分かっていた筈ではないか。自分とアイクの生きる場所が違う事など、最初から。そう思っても、エリンシアは己を戒める事は出来ない。アイクと共に過ごした一つ一つの出来事が、エリンシアに淡い想いを抱かせ、気が付けばそれはどうしようもない程に膨れ上がっていた。
共に同じ道を歩みたかった。手離したくはなかった。ずっと傍にいて欲しかった。
望んではならない事だと分かっていても、その想いを消す事など不可能だった。エリンシアの心は、もうずっとずっと前からアイクの中に囚われてしまっていたのだから。何より、彼が自分に与えた影響力は、あまりにも大きすぎた。
揺らめく視線は彼の蒼を必死に捉えようとしていた。
もう決して視界に入れる事など出来ないにも関わらず、心の何処かで未だに拠り所を求めてしまう自分がそこにいた。
何時ものように、その名前を呼べば穏やかに答える声が聞こえる、そんな錯覚さえ起こしてしまいそうで
──
「エリンシア！！」
突如として耳元に飛び込んで来た自分の名前に、エリンシアの思考が止まる。気が付けば、先に部屋を出て行った筈のアイクの姿があった。
「いきなり戻って来たりしてすまない。どうしても聞いて欲しい事があるんだ」
急いで戻って来たのだろうか、その息は上がっていた。聞き覚えのある声。それは紛れも無く、先に己が感じていた錯覚そのものだった。何故去って行った筈の彼がここに。疑問に思うよりも早く、エリンシアは声のする方を振り向こうとして
──
直ぐに止めた。涙で濡れた顔など、想いを捨て切れずに迷う姿など、見せたくはなかった。
「あんたはこれで俺との契約は終わりだと言った。だが俺は、エリンシアとの繋がりがここで切れるとは思いたくないんだ」
エリンシアの思いを知ってか知らずか、アイクは敢えて彼女を詮索するような発言はしなかった。代わりに、互いの距離を歩幅二つ程の所まで縮めて、更に言葉を続ける。
「だから、これは捨てられない」
不意に身体ごと後ろに引き寄せられて、エリンシアは思わず声にならない声で小さく悲鳴を上げた。背中にぶつかる感覚の正体が何であるか自覚するより前に、白い指先にもう一つ、無機質な感触が別の指先と共に絡み付いて来る。
「このままずっと、持っていてくれ」
己が身に何が起きているのか分からず、困惑するエリンシアの耳元に、掠れたような、しかし力強く囁かれる声が聞こえた。
「俺にとって、エリンシアとの契約は永遠のものなんだ」
アイクの言葉に、エリンシアは思わず後ろを振り向いてしまう。
熱と水分で霞んだ視界に、求めて止まない導き手の姿が映り込んだ。憂いているのか、怒っているのか、何とも気難しい表情をして
──
それはエリンシアが初めて見たアイクの一面かもしれなかった。そして、その表情はエリンシアの顔を見た瞬間にふっと和らいだような、そんな気がした。
「･･････アイクさ･･････」
一瞬のうちに過ぎて行った最後の一時。しかし、その時間は長かったのかそれともその逆だったのか、エリンシアには分からなかった。
次に彼女が自分の置かれた状況を認識した時、そこにアイクの姿は無かった。
部屋中に木霊する静寂と、一人取り残された自分。先にあったものと全く同じ光景に、夢を見ていたのではないかという思いが頭をもたげて来る。しかし、その疑問は直ぐに掻き消された。耳元に残る低い声が、指先と背中に残る温もりが、自覚してしまえば鮮明に思い出された。そして何より、その手に託されたものの存在が、あの一瞬の出来事が現実であった事を証明していた。
崩れ落ちるようにエリンシアはその場に座り込んだ。己を保ったまま、直立している事など出来なかった。
──
何て酷い人。エリンシアは思った。
少しでもアイクの姿を思い起こさないように、そう願って別れようとしたのに、あれでは逆効果ではないか。
繋がりを断ち切るように望めば拒絶されて、あろう事かまるで「自分の存在を忘れるな」と言わんばかりに訴えられて、意識するなと言い聞かせる事など最早不可能だった。
堪え切れずに、エリンシアは手の中にある契約書を固く握り締めた。幾重にも折り重なる紙の皺は、己の胸の内と同調するようだった。
零れ落ちる涙を拭おうともせず、悲嘆に震える手をじっと見つめる。
その手に託された、二人を繋ぐ絆の証には、まだ先の甘い熱がはっきりと残されていた。
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少しでも救いのある別れ方をして欲しかった･･････
(2010/08/03)