光彩の欠片
静かな夜だった。
この地が夕刻まで殺気と狂乱に満ち溢れていた事など信じられない程に、静かな夜だった。
辺り一面に広がる雪景色に紛れて、最低限の視界を確保する為の松明が揺れている。身を突き刺すような寒さ故に、外に出る者は殆どいない。
そんな中、本隊から少し離れた場所にアイクは一人、厚手の外套を羽織ったまま腰を下ろして物思いに耽る。明日の為の軍議も終わり、周囲からは早く休むようにと促されてはいたものの、どうにも気分は落ち着かなかった。その傍らでは暖を取る為の炎が静かに燃えていた。
「お戻りにならなくて宜しいのですか」
背後から聞こえる小さな足音と穏やかな声。聞き慣れた声に、アイクは後ろを振り返ろうともせず、逆に問い返す。
「あんたこそ良いのか、エリンシア」
デイン軍と皇帝軍の戦いの最中、ゴルドアの王子とその従者を連れて両軍を止めに入ったエリンシアを、半ば気遣うようにしてアイクは言う。姿を見ずとも声を掛けたのが自分だと分かった事に、エリンシアは内心驚きつつも嬉しく思ったのか、一瞬きょとんとした表情を見せると直ぐに口元を緩めた。
「私にはまだこれが残っていますから」
エリンシアはアイクの傍まで歩を進めてそのまま座り込むと、手に持っていたリライブの杖を差し出して見せる。
戦場に赴く者達にとって、ましてやその身一つで戦う獣牙の戦士にとって、治癒の力を行使出来る者の存在は無くてはならないもの。戦いが激化すればそれは尚更の事だった。
「こちらの軍にお世話になる以上、何もしないのは皆様に申し訳無くて･･････」
今も忙しなく杖を振るう仲間の負担を少しでも減らしたいと思ったのだろうか。そして他にも治癒すべき対象がいないか探していたのだろうか。その中で歩き回る内に、自分の姿を見付けて声を掛けた。恐らくはそんな成り行きなのだろう。杖の先にある淡い水晶球はすっかり色を失い、その役目を終える限界まで近付いている。アイクはエリンシアが傷付いた味方の間に入り、その力を分け与える姿を思い浮かべていた。
「･･････アイク様は宜しいのですか？」
「何がだ？」
「まだ完全に癒えてはいないのでしょう」
夜も更ける中、休もうとしない自分を連れ戻しに来たわけではないらしい。その事に安堵しつつも、エリンシアの言葉にアイクは少しだけ表情を曇らせた。
彼女が指しているもの、それは夕刻の戦いで受けた傷だった。負の気が渦巻く中暴走する獣牙族の仲間を、それこそ文字通り身体を張って止めようとした代償がアイクの左手首には残されている。本来なら軍の将として真っ先に治癒の対象者として挙げられる筈なのだが、彼は杖を持って駆け寄る神官を見るなり「俺なんかよりも先に治すべき奴がいるだろう」と、その申し出を頑なに拒んだ。そのまま簡単な応急処置だけで戦場から引き揚げて、その後エリンシアと対面した時の、彼女の悲痛な面持ちは今でもはっきり覚えている。
「･･････あんたには隠しても無駄って事か」
「隠すも何も･･････。貴方に万が一の事があったら困りますから」
仕方ない、という風にアイクは一度だけ溜め息を吐くと、渋々傷付いた場所をエリンシアの前に差し出した。
金属の留め金と革製の手袋を外すと、その下に巻かれた包帯には赤黒い滲みが広がっている。血に染まった布をそっと取り払えば、抉れたような痕に薄らと見える皮膚の内側の組織。出血は止まっているようだがそれでも完全に塞がっていないのか、時折傷口から疼くような感覚が全身を襲う。
目の前に現れた痛々しい光景に、エリンシアの口から息が詰まったような音が聞こえた。
「･･････何故、誰もアイク様を咎めようとされなかったのですか」
エリンシアにしては珍しく、半ば怒ったような口調で問われるも、アイクは押し黙ったまま口を開こうとはしない。否、言ってもどうにもならない事など、彼女にも分かっている筈だった。敵から受けた傷ならまだしも、味方が原因で起きた事態。指摘してしまえば、アイクを傷付けた仲間が責められる事は容易に想像がついた。一刻も早く、この混沌とした空気から解放されたい。それはアイクやエリンシアだけでなく、誰もが望んでいる事。目の前の戦いに集中しなければならない時に、仲間内で混乱を招く事などあってはならなかった。
「少しの間だけ耐えて下さい。直ぐに終わらせますから･･････」
エリンシアは祈るように目を静かに伏せ、杖に込められた力を解放させた。傷付いた組織が急速に再生して行く感覚にアイクは一瞬眉を顰めるも、その痛みは直ぐに淡い光によって掻き消される。
まるで彼女の本質のような、温かい輝き。光が揺れる様子を見ながら、不思議と痛みだけではなく心の波までもが穏やかになっていく。こうしてエリンシアに傷を回復して貰うのは暫く振りだが、今まで受けてきたどんな神官達の治癒よりも自分には馴染んでいる、そうアイクは感じた。
エリンシアが瞼をゆっくりと開けるのと同時に、アイクを包んでいた光が夜の闇の中へと吸い込まれるようにして消えていく。改めて己の左手を見遣れば、今し方まで痛みを伴っていたその場所は、僅かな痕すら残さず綺麗に元の姿を取り戻していた。
「もう大丈夫だ」
そうアイクが声を掛けると、心配そうに見つめていたエリンシアの口から安堵の溜め息が漏れる。彼女が握り締めていたリライブの杖は、もう使い物にはならない。まるでアイクの傷をそのまま貰い受けるように、力の源である杖の水晶球には罅が入ってしまっていた。
「それと････････････すまなかった」
「･･････アイク様？」
何時に無く真剣な面持ちで詫びの言葉を言うアイクに、エリンシアは怪訝そうな顔で小首を傾げた。
どうやら彼が気にしているのは、怪我の事で心配を掛けさせた、それだけではないらしい。
「あんたの大事な兵を、俺は生かしてやる事が出来なかった」
アイクの言葉にエリンシアの表情が固まった。それと同時に、夕刻の光景が思い起こされる。
二人が対面した時、エリンシアは衝撃を隠す事が出来なかった。アイクは傷口から紅い雫が滴り落ちるのを気にも留めず、エリンシアの姿を見るなり真っ先に彼女に向かって頭を垂れたのだ。それは、譲り受けたクリミア兵の殆どが戦いで散ってしまった、その事に対する彼なりの精一杯の謝罪だった。
「･･････どうか、お顔を上げて下さい」
唇を固く結んで俯いたまま動かないアイクに、エリンシアは密かに動揺しながらも努めて冷静に労りの言葉を掛けた。
「戦なのです、･･････私にも覚悟は出来ています」
責める事など出来なかった。自国の大切な民を失う事は辛いが、クリミアだけでなくガリアやベグニオンの命を預かるアイクの負担は、自分の悲しみとは比べ物にならない程重かったからだ。
「･･････エリンシア」
滅多な事で挫ける筈はないアイクだが、流石に今回の件では堪えたらしい。長い沈黙の後に返された声は、微かに震えているようにも聞こえた。
「彼らはアイク様の力になれた事を誇りに思っている筈です。･･････どうか、そこまでご自分を追い詰めないで下さい」
「･･････ああ、分かっている」
分かっている、そうは言ったものの、アイクの中にはまだ蟠りが消えずにいるようだった。
元々は中立の立場を貫いていたにも関わらず、そして自分達が巻き込んでしまったのにも関わらず、エリンシアは皇帝軍とそれを率いる自分の為にクリミアの精鋭を貸し与えてくれた。彼女の好意を無下にしないように、一人でも多くの命を返せるように一刻も早く戦争を終結させる事、それがアイクに課せられた使命だった。しかしデイン軍の抵抗は思いの外強く、戦乱の中でいとも簡単に仲間の命は消えていく。日に日に増えていく犠牲者の数、そして焦りにも似た不安と苛立ち。両軍とも互いに退けぬ理由があるとはいえ、今のこの惨状に心を痛めない筈などないのだ。
「･･････迷っていらっしゃるのですか？」
項垂れるようにしたままのアイクにエリンシアは声を掛けた。が、直ぐに自分が追い打つような言い方をしてしまった事に気付いて慌てて首を横に振る。
「･･････あ･･････申し訳ありません！ 決してアイク様を責めようなどとは･･････」
「いや、迷っているわけではないんだ」
先の発言を弁解しようと必死に言葉を紡ぐよりも早く、アイクがエリンシアの問いに対する答えを返してきた。何時もと変わらない、淡々とした物言い。どうやら気分を害したわけでは無いらしい、
その事に安堵して、エリンシアはほっと胸を撫で下ろす。
「腑に落ちない事は幾つもあるが･･････それでも前に進むしか無い」
エリンシアを見つめていた視線がふっと逸れ、溜め息と共に夜の空へと吸い込まれていく。
「単に俺の気持ちの整理が付かない、それだけの事だ」
事態が動き始めた以上、もう後戻りは出来ない。各々が目指す道の先にあるものを掴み取る為に、
例え多くの犠牲を払ったとしても、そこで立ち止まるわけにはいかない。それはアイクだけでなく、誰もが承知の上。最初から全てが思うようになる事など有り得ないと言い聞かせてはいたが、今になって改めて意識するのは今一度己を戒める為かそれとも。
「引き受けたからには、最後まで全うするさ」
これ以上深追いしても埒が明かない。思い直して、アイクの視線は再び下へと戻される。
「･･････すまん、聞いてて気分の良い話じゃなかったな」
「いいえ、寧ろお話頂けて良かったです。相当お疲れのご様子でしたから･･････」
「そうか、それなら良かったんだが･･････」
互いの声に焚火の爆ぜる音が聞こえてくる。朽ちる音と、その中で燃え続ける赤い煌めき。不安定に揺らめきながら、決して一つの形に収まろうとはしないその姿は、まるで自身の心を表しているようだった。
「きっと俺は」
思いを巡らせながら、一つの結論をアイクは導き出す。
「誰かに吐き出したかっただけなのかもしれん」
我ながら珍しい事もあるものだ。アイクは思う。
付き従う者には決して話せない胸の内。己の弱みを見せるような事は決してすまいと心に決めてはいたが、今この時になって吐露しようなどと思ったのは、エリンシアが咎める事をせず、そのまま思い煩いを受け止めてくれると確信出来ていたからだろうか。
「あ、あの･･････アイク様！」
思いの外大きな声が耳に飛び込んで、アイクは思わず目を見開いてエリンシアの方を見遣る。
一番驚いていたのは名前を呼んだ当の本人だった。身を乗り出すようにして声を出した瞬間に、自分がはしたない行動を起こしてしまったと認識して、エリンシアは内心酷く焦っていた。
「･･････エリンシア？」
「その･･････私のような者が、申し上げて良いのか分からないのですが」
落ち着きの無い様子の自分にアイクが不信感を抱きはしないかと若干の不安を覚えるも、言い出してしまった以上は後には引けない。それは、アイクの話を聞く中でどうしても自分の思いを伝えなければならない、そう感じていたからに他ならなかった。
「･･････私は、アイク様が間違った事をされているとは思いません」
今回の件に直接関わっていない自分が何かを言える権利は無いのかもしれない。しかし、軍の総大将であるアイクと一国の王である自分と、立場こそ違えど、人を率いる者の苦しみは語らずとも理解出来る。
「どうかご自身の信じる道をお進み下さい。皆様も、アイク様だからこそ力になりたいと思えるのですから･･････」
そして私も。その言葉だけは胸の内でそっと呟いて。
今更分かり切った事を、と思われるかもしれない。それでも、発した言葉に嘘偽りの念は全く無い。自分がアイクの言葉に幾度と無く支えられてきたのと同じように、
彼の負担が少しでも和らぐのであれば、どんな拙い言葉でも掛けてあげたかった。
瞬きもせず、じっと視線を送るアイクとは対照的に、蒼く揺らめく視界の奥に映る己の姿は酷く小さく頼りない。無言のままのアイクに対して、言いたい事を言い終えてしまってからエリンシアは、
やはり言うべきでは無かったかと不安を過ぎらせる。
自分とした事が、何て差し出がましい真似を。どうにか弁解しようと口を開き掛けた瞬間、アイクが「エリンシア」と己の名を呼ぶ声が聞こえて、エリンシアは慌てて考えていた言葉を喉元に留まらせた。
「･･････有難うな」
「えっ･･････？」
「話を聞いてくれたのが、あんたで良かった。･･････お陰で、気が楽になった」
無愛想だった面持ちが少しだけ緩んだような、そんな安堵の表情が見て取れる。
今のアイクにとって必要だったのは、背中を押してくれる存在だったのかもしれない。それも第三者的な立場から、しかしながら同じような志を持つような人物が。弱さも迷いもそのままの思いを聞き入れ、突き放す事無く、かと言って主張し過ぎる事もしない。今この場でそれが出来るのは、恐らくエリンシア一人だけだった。
「アイク様･･････」
果たして真意はどれほど伝わったのか。エリンシアは一瞬気掛かりに思うも、直ぐに深く考えるのを止めた。元来取り繕うという概念の無いアイクの事だ。その彼が大丈夫だと言うのだから、これ以上の言葉は必要無かった。ましてやその安穏が自分によってもたらされたものだとすれば、嬉しくない筈など無い。
返事の代わりにエリンシアは一度だけ小さく頷きながら、胸の奥底から広がる灯火のような感覚に心地良さを感じていた。
「さて･･････そろそろ戻らんとな」
夜の闇は益々深まり、辺りには薄らと雪の小さな白い粒が集まってきていた。
流石に長い事外に留まれば明日に障る、思ってアイクがゆっくりとその場から立ち上がろうとする。
「あんたはどうするんだ？ エリンシア」
「私･･････ですか？」
自分と同じようにその場から腰を上げるエリンシアに、アイクは訊ねた。
「私は、杖を取りに一旦天幕に戻ろうかと･･････」
「一旦？ 何だ、まだ休まないのか？」
「もう少しだけ負傷した方の手当てをしたいのです。明日もきっと激戦となるでしょうから･･････」
傍らに置いておいた壊れた杖と汚れてしまった布を片付けながら、エリンシアは言う。人手の足りない現状で自分が出来る最善の事は何か。それは一人でも多くの仲間を癒し、万全の状態で戦力として送り出すという事。傷付き苦しむ仲間を見るのは心が痛むが、それでも何もしないで待つだけの身の方が耐えられなかった。
「そうか、だったら」
アイクは羽織っていた外套の留め金を外すと、自分の身体とエリンシアの身体の両方を覆うように肩に掛けてやる。
「･･････！」
思いがけず互いの距離が近付いて、
エリンシアの心臓が大きく音を立てるように揺れ動いた。
「あ、あの･･････アイク様･･････？」
「傷を治して貰った礼代わりだ。送って行こう」
戸惑う様子を気にもせず、アイクは促すようにエリンシアの背中を押してやると、彼女の歩調に合わせるようにゆっくりと歩み始める。
肩に回された腕と、身体に伝わる温もりは思いの外心地良かった。しかしエリンシアは全てを委ねようとする事は出来ない。心臓の鼓動は制御出来ない程に高鳴って、もしアイクに気付かれてしまったらと思うと気が気ではなかったからだった。
「･･････寒いか？」
「あ･･････いえ、大丈夫です」
優しく気遣うように注がれる視線をまともに受け止める余裕は無い。アイクの問いに軽く首を横に振って、俯き加減のまま歩を進めるのがやっとだった。
逸る気持ちを何とか抑えようと、胸元に両の手を置いて小さく息を漏らす。
共に肩を並べて歩く、それは遠い記憶の中にある光景と同じもの。違うのは、互いの距離が物理的にも精神的にも確実に近付いたという事だった。
果たしてその事実にアイクは気付いているのだろうか。エリンシアは思うも、言葉にするのは流石に躊躇われた。滅多に感情の揺れる事の無いアイクが、その欠片を少しだけ見せてくれている。それは、アイクにとって自分が信頼に足る存在であると認めてくれているという事。それが分かれば充分な筈だった。
「エリンシア、あんたがいてくれて良かった」
静かだが確信を以て呟くアイクの声に、エリンシアはただ黙って小さく頷いた。
今一度身体を寄せられる感覚が伝わってきたのは、きっと気のせいではなかった。
静寂と闇に包まれる中、外にいるのはたった二人。
女神の裁きが下されるまで、時間はもう残されてはいなかった。
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アイクにとって、エリンシアは何でも話せる存在だったら良いなーという妄想の産物
(2010/08/31)