未だ暁は昇らず
薄暗く、仄かに湿った空気はつい先程まで留まっていた夜風の余韻を伝える。
新しい日の訪れを告げる鐘の音がやけに耳に残るのは、今この瞬間が自分にとって特別なものであるからだとエリンシアは理解していた。
大陸の安定を見届け、まだ見ぬ土地を求めて救国の英雄は旅立つ。何物にも囚われず、己が信念の導きに従って、自らの思うままに道を歩み始める。今度は己自身の探究の為に。
王宮の外へと続く廊下を、二人で肩を寄せ合いながら歩いた。微かに響き渡る足音は徐々に近付く別れの時を予感させる。互いの間に言葉は無い。否、必要無かったのかもしれない。内に秘めた想いを、今の二人なら言葉を介せずとも充分に伝える事が出来る筈だったからだ。
「ここで良い」
永遠と思われた道程にも終わりがやってくる。アイクはふと歩みを止めて、エリンシアの方へと向き直ると、薄明かりの中に見上げる瞳を穏やかな色を以て受け止めていた。
「色々と大変だろうが、元気でな」
「お心遣い有難うございます。どうかアイクもご無事で･･････」
直に夜は明け、陽が昇る。そして、互いの務めもまた新たに始まる。今この時が、その分かれ目なのだろう。アイクの決心をエリンシアも感じ取り、小さく頷いた。
「何時になるか分からないが、必ず戻って来る。それまで待っていて欲しい」
口約束だけでは足りないと、差し出された剣を受け取り、愛おしそうに抱き締める。これまで形式上の騎士の宣誓には何度も立ち会ってきたが、今この場で示された誓いは、女王としてではなく一個人としてのエリンシアに捧げられているもの。それが何よりも嬉しくて、思わず笑みが零れる。
「今度は泣かないんだな」
「あの時とは状況が違います。それに、待つ事にはすっかり慣れましたから」
半ばからかうようなアイクの口調に、エリンシアは少しだけ困ったように眉を寄せた。
二人が思い起こすのは、数年前の別れの記憶。爵位返上の際に、結局は見られてしまったのだが、立ち去るアイクに対して涙を見せまいと、エリンシアは決して最後までその姿を見届けようとはしなかった。あの時と今と違うのは、別れの先にあるものが悲しみだけでは無いという事。それを確信させるアイクの誠意と恩恵を、エリンシアは充分過ぎる程に受けていた。
「何時までもお待ち申し上げております。アイク、貴方の事を」
小脇に剣を抱えたまま、エリンシアはアイクの手を取ると、そっと自分の胸の上に押し当てた。アイクの心がエリンシアの中にあるのなら、エリンシアの心もまたアイクの中にある。その事実さえあれば、どれ程の長い離別の時が続こうとも、きっと耐えられる。アイクがしてくれたのと同じように、エリンシアも誓いを立て、その誠意を見せようとしていた。
「･･････エリンシア」
アイクの腕が、エリンシアの華奢な身体を抱き寄せる。せめてその顔だけは何時までも記憶に留めておきたいとエリンシアが見上げれば、アイクも同じようにエリンシアの姿を焼き付けようと視線を返していた。
「このままあんたを連れ去ってしまえたら良いんだが」
「え･･････？」
言葉の意味を理解するより先に、エリンシアの身体はいとも容易くアイクによって抱え上げられてしまう。
「来るか？ 一緒に」
「アイク、それは･･････」
事態を察して、エリンシアの表情が一気に困惑の色に染まる。思うように身体が動かない事に焦りを覚え、それでもアイクがそのまま歩き出そうとするものだから堪ったものでは無い。
「！ 駄目･･････！」
私にはやらなければならない務めがあるのです。貴方だって知っているでしょう。エリンシアは必死に訴えた。無論、アイクと離れる事に寂しさを感じない筈など無いのだが、だからといって自分の責務を放棄する程、身勝手になれる筈も無い。もしこのまま本当に連れ出されてしまったら。そんな不安を覚え、押し潰されそうな胸に手を当てる。
戸惑うエリンシアの様子に、アイクは動じる事も無く、表情を変える事もしない。代わりにエリンシアの身体をそっと地に立たせ、表情はそのままに、熱っぽく潤んだ両の瞳を見詰めた。
「冗談だ」
アイクの言葉に、エリンシアの表情が一瞬固まる。しかし直ぐにその意味を理解すると同時に、見る見るうちに頬は紅潮して、普段の彼女からは想像出来ないような、半ば怒ったような色が浮かぶのがはっきりと分かった。
「酷い･･････」
居た堪れなくなって、エリンシアは救いを求めるようにアイクの腕に縋り、胸元に顔を埋めた。流石に度が過ぎたと感じたのだろうか。アイクも、悪かった、と一言呟いて、労るようにエリンシアの背を優しく撫でていた。
「試すような事をしてすまなかった」
「もう･･････。もし私が『一緒に行きます』なんて言ったらどうされるおつもりだったのですか」
「いや、その心配は無かった。あんたならそんな事言わないと思っていたからな」
そう言って、僅かに口元を綻ばせるアイクの表情はある種の強烈さを含んでいた。他者から見れば殆ど変化の無い様相にエリンシアが気付くようになったのは、誰よりもアイクの姿を追い求めて来たからに他ならなかった。
「･･････貴方には敵いません」
何時だってそうだった。アイク自身が純粋であるが故に、実直であるが故に、これまで幾度と無く彼の何気ない一言に心を動かされてきた。その影響力は昔も今も変わらず、エリンシアの中にある。そして、それは例え本人にそうさせたという自覚が無くとも、きっとこれから先もずっと続いて行くのだろう。
それから暫く無言のまま、アイクもエリンシアも互いの温もりに身を預けていた。このまま別れるのは惜しい。そう思っていても、最後の時は確実に迫っていた。定時を告げる鐘の音が鳴り響くのを聞いて、アイクが抱き締めていた腕の力を緩める。
「それじゃあ行って来る」
「ええ。どうかお気を付けて･･････」
そっと身体を引き離そうとするアイクに、エリンシアは一瞬躊躇して、直ぐに思い直すと、再びその逞しい腕に縋り付いた。
思わぬエリンシアの行動に、アイクの表情が微かに揺れ動く。自分の往生際の悪さに、きっとアイクは呆れているのかもしれない。それでも、これが最後の機会なのだからと、エリンシアは口を開いた。
「有難う、アイク。貴方にこんなに想われて、私は本当に幸せです」
伝えたかった。どうしようもなく膨れ上がるこの想いを。
それは言葉にするにはあまりにも軽率過ぎたが、声に乗せる以外の方法をエリンシアは知らなかった。だが今の二人にとってはそれで充分だった。己の内に目覚める感情を、伝えたいと思うのはアイクも同じだったからだ。
「ああ。俺も、ここにいるのがエリンシアで良かった」
今一度その華奢な身体を抱き締め、何よりも愛おしく大切な存在に唇を落とす。触れ合った時間は一瞬だったが、二人にとって別れの挨拶代わりの口付けは、もっと長いもののように感じた。
「クリミアの事を、頼む」
エリンシアがはっきりと頷いたのを見届けて、アイクは王城と外界を繋ぐ道をゆっくりと歩み始めた。
旅立つ勇者の姿をすっかり見送ってから、エリンシアはそっとその場に座り込んだ。緊張の糸が緩んだように、ふっと湧き上がって来る感情の揺らぎを感じて、エリンシアは一瞬その流れに飲まれそうになるも、ぐっと堪える。それが悲しみから来るものなのか、それとも違うものからなのか、エリンシアには分からなかった。
誓ったのだ。もしアイクを送り出す機会があるのならば、今度こそ迷う事無く、何も憂う事無く、自らの道を進む為に背中を押してあげようと。それに、確かな証を貰ったこの身に、涙など今は必要無い筈だった。
薄らと差し込む光が朝の訪れを告げると同時に、エリンシアの新しい歩みも始まる。徐々に移り行く空気の変化は否応無しに、彼女を現実へと引き戻そうとする。在るべき場所へと帰らなければ、そうエリンシアは思いながら、せめてもう少しだけ、と己が身をきつく抱き締め、先程まで自分に与えられていた甘い熱の余韻に浸っていた。
「･･････私は強くなります。アイク、貴方の為に」
胸の内に秘めていた決意を己自身に言い聞かせるようにエリンシアはそっと呟き、愛しい人の名前を微かに響かせた。固い絆と希望の光は、確かに自分の中に残されたと、そう確信しながら。
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書きながら思ったのは、やっぱりアイエリ大好きって事でした
(2010/11/23)