睡蓮は密やかに月光を仰ぐ
もう夜の定例会議も閉じられたというのに、エリンシアの姿は未だ部屋の中に残されていた。冷気を纏った石造りの壁に凭れ掛り、視線は窓辺に寄せられたまま、そっと溜め息を吐く。眼下には一面の漆黒に覆われた世界が広がり、城下を行き交う者同士の声が微かに聞こえて来る。
今日という日が、人々にとって特別なものである事をエリンシアは知っていた。期待と不安の入り混じった空気がクリミア中を満たしているのも、自分の心持ちが妙に落ち着かないのも、全てその所為なのだと。
傍らの机の上には、簡素な包装を施した小さな箱が置かれている。この日の為にと、忙しい公務の合間を縫って自ら作った物だが、渡すべき相手は未だ姿を現わさぬままだった。
エリンシアが王都メリオルの城からグレイル傭兵団の姿が消えている事に気付いたのは、夕刻になってからの事だった。報告も無しに出て行くなど、何か余程の事があったのか。不安に思って臣下に訊ねると、お話しようか迷ったのですが、と前置きされながら事の顛末を伝えられた。
「偵察に向かわれたそうなのです。デインとの国境付近の」
ルキノの言葉にエリンシアは目を丸くした。デイン―クリミア間の戦争が終結したとはいえ、二年近く経った今でも両国が不安定な状態にあるのは確かだった。しかし、だからといって冬のこの時期に急を要する事態が起こる事は考え難い上に、何よりエリンシア自身が偵察の役目を傭兵団に依頼した覚えなど無い。
「･･････恐らくは、あの者達に命じられたのではないかと」
一体誰がそんな事を。焦りと不安の色を見せるエリンシアに対して、ルキノは苦虫を噛み潰したような表情で答えた。それが保守派の貴族達の仕業だという事を理解するのに、時間はそう掛からなかった。
クリミアが再興されてから、女王派と保守派の対立は日を追う毎に強くなるばかりだった。エリンシアの王としての力量不足に失望している事も原因の一つではあったが、何より伝統や家柄を重んじる彼らにとって、成り上がりで今の地位を築いた傭兵団の存在は、ましてや団の長であるアイクがエリンシアの寵遇を受けている事は、不愉快極まりないものであった。故に今回の件も、偵察という名目の下に厄介払いをされたのだ、と容易に想像がついた。
「申し訳ありません。もっと早く気付いていれば止める事も出来たのですが･･････」
「良いのです。私の方こそ、貴女に余計な心配を掛けてしまってごめんなさい」
厳しい顔のルキノを労るようにエリンシアはそっと笑みを湛えて答えるも、胸の奥に鈍い痛みが走るのを抑える事は出来なかった。
やはり戻っては来られないか。外の景色が一向に変化しないのを感じて、エリンシアは決心したように会議室を後にする。
私室へと続く、暗く長い廊下の途中で歩みを止め、ふとエリンシアは考えていた。思えば女王に即位してからこの二年間、否、出会ってから今に至るまで、自分は労いの言葉も休息も碌に与えて来なかったのではないか。どれほど周囲から苦言を呈されようとも、無理難題を押し付けられようとも、アイクは嫌な顔一つせず「あんたの為になるなら」と全てを負ってくれていた。本来ならばもう王宮から解放すべきであるのに、その主動力と優しさに甘え、繋ぎ止めようとしてしまう。自らの未熟さから来る後ろめたさと、傍に居て欲しいという願望と、二つの感情の間でエリンシアの心は揺れ動いていた。
手の中にある小さな箱は、在るべき居場所を求めて何処か寂しそうに佇んでいる。
受け入れられなくても構わなかった。ただ、今まで尽くしてくれた誠実さに対して、自分が内に溜めてきた想いを形にして伝えたかった。その機会は、女神の祝福を最も受けられると言われるこの日が相応しいと、ずっと前から思っていた。
しかし、自分の考えている以上に見通しは甘かった。もし仮にアイクが受け取ったとしたらどんな顔をするだろうか、その様子を見て自分はどんな言葉を掛けるだろうか
──
これは、そんな淡い期待に心を震わせ、一瞬でも為政者としての責務を忘れた報いなのか。周囲の動向に気付く事が出来ず、そうはさせたくなかったのに新たな負担を与えてしまった。その事実にエリンシアは己の浅はかさを改めて自覚し、心底呆れていた。
夜もすっかり更け、辺りに響いていた喧騒も徐々にその勢いを弱めつつある。今日の内に戻るのは恐らく無理なのだろう。ならばいっその事、この手にあるものは自分の中に収めてしまった方が良いのではないか。そんな事を考えながら、下の方へ傾けていた視線を廊下の先へと巡らせると、急ぎ足でこちらへ向かって来る人影に気付く。なかなか部屋に戻ろうとしない自分を侍女が迎えに来たのか。思うも、それよりもずっと大柄な体格が闇の中から薄らと現れ、エリンシアの予想は一瞬にして脳裏の奥へと掻き消えた。
「エリンシア」
思わぬ待ち人の帰還にエリンシアは目を見開いたが、直ぐに状況を理解すると安堵の表情を浮かべ、頬を緩ませた。
それから暫くして、二人の姿は接見の間にあった。控え目に腰を下ろすエリンシアと、どっかりと座り込むアイクと、一見するとどちらの立場が上なのか分からない様相ではあったが。
「遅い時間にすまない。せめて報告だけでもと思ってな」
「どうかお気になさらないで下さい。無事のお戻りで何よりでした」
無愛想な表情は何時もの通りだが、そこに疲労の色が見える事にエリンシアは気付く。幾らアイクが数多の戦いを潜り抜けて来たとはいえ、寒さの厳しいこの時期の出向は、ましてやそれが不本意な形で処されたものであれば、その身に掛かる負担は決して小さくはない筈だった。
「咎めないのか？」
「？ 何をですか？」
「俺はあんたの指示を仰がず、勝手に出て行ったんだ。その報いは受けるべきだろう」
「それは･･････」
アイクの言葉にエリンシアは口籠ってしまう。確かに、アイクが主君であるエリンシアに何も告げずに行動を起こした事は、本来ならば決して許されるものではない。だがそれは自らの甘さが招いた結果であり、一方的に彼を責める事などエリンシアには出来る筈もなかった。
「アイク様は何も悪くありません。どうか『報い』などと仰らないで下さい」
「だが、それでは他の者に示しが付かないんじゃないのか？」
「それも承知の上です。全て、私の責任なのですから･･････」
言いながら、エリンシアの両手は無意識の内に膝の上で固く握られていた。今回の処遇をどうするのか、彼ら貴族は見張っているのだ。命令違反を犯したアイクと、それを仕向けた自分達に対して。エリンシアは直ぐに察しがついた。しかし、彼女にとってその決断を下す事はあまりにも重かった。例え付け入る隙を与えてしまっても、咎を免れた事でアイクに更なる追い打ちが掛かろうとも、内部の揉め事を明るみに出してしまうのは得策ではない。何より、抗う者達に対して真正面から向き合い受け止める、その強さをエリンシアは未だ持ち併せていなかった。
「あんたがそう言うなら良いんだが･･････」
煮え切らない表情のエリンシアに対してアイクは幾分怪訝そうに眉を顰めるも、これ以上は語らない、その意思を汲んで無理に聞き出そうとはしなかった。
「それで･･････如何でしたか？ 向こうの状況は」
深追いされずに済んだ、その事に密かに胸を撫で下ろしながら、エリンシアはアイクに訊ねる。
「特に目立った変化は無かったな。だが、一つ気になる事があった」
「気になる事、ですか？」
「どうも、ベグニオンの連中に不穏な動きが見られるようだ。今はまだ表立ってはいないが、或いはもしかすると
──
」
エリンシアに向けていた視線を上方へと逸らし、一瞬の間を置いてからアイクは言う。
「また戦争が始まるかもしれん」
全部セネリオの受け売りだがな、そう付け加えて、アイクは小さく溜め息を吐いた。
戦争が始まる。その言葉にエリンシアの胸がざわついた。ベグニオンは今、主導者を失ったデインを傘下に置いている。そして、もしその領土を完全に我がものにしようとデインに対して攻撃を仕掛けるならば、大国は間違いなく先の戦いで支援を与えたクリミアに対して、同じものを要求してくるだろう。目の前にある案件を片付けるだけでも精一杯だというのに、それ以上の重荷が増えるとしたら
──
想像するだけでエリンシアはぞっとした。
「･･････すまん、あんたの立場を考えていなかったな」
「構いません。遅かれ早かれ、心得ておかなければならない事だったのです」
ですから私の事はお気遣いなく。そう話すも、エリンシアは押し寄せる不安を隠す事は出来なかった。視線を下に落とし、逸る胸元をそっと手で押さえる。今の彼女には、取り繕う余裕すら残されていなかったのかもしれない。もっとも、それはエリンシアにとって、アイクは弱みを見せる事の出来る数少ない人物だった事もあるのだが。
「･･････エリンシア」
不意にアイクが立ち上がり、エリンシアの方へゆっくりと近付いて来る。目の前に現れた大きな影に驚き、エリンシアは半ば怯えるような表情で見上げ、対照的にアイクは表情一つ変えずにエリンシアの視線を受け止めている。何かもの言いたげにアイクは僅かに唇を動かすも、その先が発せられる事はない。エリンシアに対してどんな言葉を掛ければ良いのか、彼なりに考えてみたものの、見付ける事は出来なかったように見えた。エリンシアだけではない、余裕が残されていないのはきっとアイクにとっても同じ事だった。
お互いに押し黙ったまま、何とも気まずい空気が部屋中を満たしていく。困惑の色はそのままに、エリンシアは必死になって思考を巡らせ、何とかしてこの言いようの無い居心地の悪さを緩和させる言葉を探っていた。そういえば、忙しい中報告に訪れてくれたアイクに対して、自分はまだ何も謝意を見せていなかったのではなかったか。慌てて思い出して、エリンシアは口を開こうとするも、それよりも先にアイクの視線が動いて、言葉は声ごと喉の奥へと仕舞いこまれてしまう。
「どうしたんだ、それ」
「え･･････？」
アイクの視線は、座っているエリンシアの腰の辺りに、正確にはその後ろで身を潜めるようにして置かれていたものに注がれる。自分が用意した小箱だと理解するのに、そう時間は掛からなかった。もう渡せないからと諦め、無意識の内に隠すようにして傍らに寄せていた筈だが、真上からの視界には死角など存在せず、容易くアイクの目に留まったのだろう。
「あ、あの、アイク様。これは･･････」
貴方に差し上げる為のものです、とは言える筈も無く。どう説明しようかとエリンシアが悩むより先にアイクの手は箱に伸び、目の前へと取り上げる。包装の隙間から伝う仄かな甘い香りに気付いたのか、アイクは興味深そうに箱を眺め、目を瞬かせた。
「これは･･････焼き菓子か？」
「はい、私が作ったものなのですが･･････」
アイクはエリンシアと箱を交互に見遣り、珍しい事もあるもんだな、と呟く。公務を放り出して何をしているのかと諌められる、そんな状況をエリンシアは予測していたが、彼の関心は目の前の箱に、と言うよりも寧ろ、その中身にあるように見えた。
「宜しければ召し上がりませんか。」
エリンシアの言葉に促され、アイクは隣に腰を下ろして包みを解いていく。蓋を開けると、褐色を帯びた小さな円形状の菓子が、その身に純白の雪を纏わせながら待ち侘びたように顔を覗かせていた。
「中に砕いた胡桃を入れてあります。貴方のお口に合えば宜しいのですが･･････」
言いながら、エリンシアは内心気が気でなかった。アイクの視線をすぐ近くに感じるのもそうだが、まさかこんな形で手渡す事になろうとは夢にも思わなかったからだ。しかし、逸してしまえば二度目の好機は無い。渡すか渡すまいか、エリンシアには悩む時間など必要無かった。
「･･････美味いな」
一つ目の菓子を口に放り込んで、恐らくは無意識なのだろうが、アイクがそっと呟いた。初めて味わう物珍しさからなのか、それとも口に合ったからなのか、直ぐに二つ目を手に取って再び口の中へと収める。
無言で目の前のものに集中するアイクを、エリンシアは穏やかな表情を以て眺めていた。きっとアイクは今日が何の日であるかなんて知らないだろうし、こうして一緒に居る事が何を意味しているか分かる筈も無い。だが、これで良かったのだ。エリンシアは思った。真意は伝わらずとも、多かれ少なかれアイクが喜んでいるのだと感じられれば、淡い想いを抱える心を満たすには充分だった。
「あんたも食べないか」
言われて、差し出したエリンシアの手の平に、小さな菓子が二つ転がり込む。貴方の為のものなのに、そうされては意味が無いではないか。内心苦笑いするも、その心遣いが何よりも嬉しくて、エリンシアは手の上にある純白の球形を愛おしそうに眺めると、アイクと同じようにそっと口の中へと運ぶのだった。
Back
こんな内容でもバレンタインの話だと言い張ってみる
(2011/02/13)