暗き夢を追う
王城の広い廊下を通る途中で、見覚えのある顔に出会った。クリミア正規軍の者達が身に付けるものとは違う濃い藍の鎧と、晴天の空を思わせる浅縹色の髪が目に留まり、誰かと聞かずともその名前は直ぐに脳裏に浮かんだ。
「行ってしまうんだな」
表情こそ変えないものの、心底名残惜しそうに呟く声が聞こえて来る。
「何だ、あんたにも話は伝わっていたのか」
「ああ。せめて見送りくらいはと思って待っていたんだ」
城を去る事は、目の前にいる当の本人には話してはいない。だが、人伝に聞いたのだろう。彼の立場を考えれば、必要な情報は何処からでも集められる事など、容易に想像が付いた。
「公務は良いのか？ そこまで自由に動ける時間がある訳でも無いだろうに」
「まあ、な。だがクリミアの英雄に対して、こちらが何もしないのは失礼にあたるだろう？」
ジョフレの言葉にアイクは目を見開いて、僅かに首を傾けた。
「･･････『英雄』か」
「やはりその呼び方は気に入らないか？」
「当たり前だ、俺はそんな器じゃない。なのに好き勝手言いやがって」
思った不満をそのまま口にしただけなのだが、言い終わった瞬間に軽く吹き出されてしまった。神経を逆撫でされたような気がして眉間に皺を寄せると、慌てて頭を振ってすまない、と謝意を伝えられる。
「何が可笑しい」
「いや･･････相変わらずだなと思ったまでだ」
ひとしきり笑ってから、崩していた表情は何時もしている生真面目なものへと引き戻される。
「だが、君は確かにこの国を救った。その事実に変わりは無い」
「それを快く思わない輩もいたみたいだがな」
「･･････そうだな。残念な事ではあるが」
言いながらジョフレは視線を僅かに天上へと向け、そっと溜め息を吐いた。アイクに与えられた爵位も称号も、クリミアを再興するには不可欠のものである筈だった。しかし、それに対して異議を申し立てたのは、同じクリミアに生きる者達だった。出自の違いという、自分にとっては取るに足らない理由の為だけに。互いの間に生まれた隙間を埋めようと奮闘した事もあったが、結局は叶わぬままとなってしまった。
「さあ、あまり長く引き留める訳にもいくまい。行ってくれ」
「ああ、城の連中に宜しくな」
「どうか元気で。またいつか、必ず会おう」
差し出された手を固く握り返し、外へと繋がる道の方へと向き直ると、アイクは再び歩を進め始めた。
やはり、一介の傭兵に戻すにはあまりにも惜しい
──
城の者と擦れ違う際に呟かれる声を後ろから聞きながら、答えられる筈もなく。
城門を潜ると、傍らで待ち構える団員の姿があった。自分が来たのに気付いたのか、ミストが声を掛けて来る。
「あ、お兄ちゃん。やっと来たね」
「すまん。思いの外、遅くなってしまった」
「ううん、良いよ。待つのは慣れてるし」
待たされた事に不満を漏らすでもなく、ミストは普段見ているような屈託のない笑顔で答えた。自分と同じく、自由の利かない王宮暮らしは彼女にとってもさぞかし苦痛だったろうが、それでも本来の明るさは変わっていなかった事に密かに安堵する。
「お疲れ様、アイク。もう女王様とのお別れは済んだのね？」
「ああ。他の奴らはどうした？」
ティアマトの言葉に答えを返しながら、アイクはふと辺りを見回し、いつもなら行動を共にする筈の団員が数名いない事に気付く。シノンやガトリーだけならともかく、三兄弟の面々までもが、特に冷静沈着なオスカーの姿が見当たらない事に、違和感を覚える。
「ええ、その事なんだけど･･････」
「あの人達なら、もうここにはいませんよ」
浮かんだ問いに対してティアマトが答えるよりも早く、横からセネリオが割って入って来た。
「全く、団長の到着を待たずして先に行ってしまうなど、身勝手甚だしいものです」
セネリオの表情は動かないままだが、その口調には明らかに棘のようなものが含まれていた。不穏な空気を感じて居た堪れなくなったのか、ミストが慌てて弁護の言葉を口にする。
「もっともオスカーなんかは、シノン達を止めに行っただけなんだけどね」
「されど戻って来る訳でも無い。どんな理由があるにせよ、団の統制を乱した事に変わりはありません」
「そ、それはそうなんだけど･･････」
「まあ良いさ。待たせてしまった俺にも非はあるからな」
「ですが、アイク･･････」
「どうせ目的地は同じなんだ。そのうち合流出来るだろう」
これ以上詮索していても埒が明かない。アイクは宥めるようにそう言うと、先に行ってしまった仲間の後を追う為に、地を踏み出した。
城下に連なる店の通りを、僅かな荷を携えて進んで行く。このまま真っ直ぐ団の砦を目指す道もあるが、何しろデインの手によって祖国を離れてから今の今まで、一度も帰る事が出来なかったのだ。先立って進もうとする傍らではティアマトやミストが足を止め、必要なものを買い足しては新たな荷を増やしていた。
行き交う人々の活気も、店先に並べられる品物の質も、侵攻前のものと遜色無く、ともすればここ二・三年の間に大きな戦争がこのクリミアの地で起きていた事など、失念してしまいそうになる。だがひとたび路地裏へと目を向ければ、人目から隠れるようにして身を寄せ合い、座り込む袖乞いの姿が映り込んで来る。その数も、決して少なくは無い。再興の光は確かに差し込んではいるが、まだ充分では無い
──
そんな現実を突き付けられ、胸の奥が鈍く痛むのを感じてアイクは思わず自らの胸元をそっと掴んだ。同時に、年だけを無駄に重ねたような保守派の貴族達が、自分達に都合の良い情報だけを掻い摘み、クリミア再興は完全に為されたのだと豪語する光景が蘇る。
何とも腹立たしい連中だ。公の場では決して言えない言葉を思い浮かべて、密かに溜め息を吐いたのは、一度や二度だけではなかった。腹立たしいと思ったのは、平民上がりの自分に対する仕打ちではない。己が保身を第一とする思想もそうではあるが、何より、祖国再興の礎となった唯一の存在に対する敬意が何一つ見られなかった事に、酷く腹立たしさを覚えたのだ。最初の頃は、傅くような素振りも見せた事もあったが長くは続かず、不満の火種は徐々に燻ぶり始めていた。心優しき女王が強く主張出来ないのを良い事に、彼らの言葉には次第に遠慮というものが無くなり、先の戦争の責任は敵国のデインのみならず、侵攻を許してしまった国王に連なる者達、即ち女王にもあるのだという声すら挙がるようになった。
「何故奴らを糾弾しない？」
「貴方が仰りたい気持ちは分かります。ですが、聞き入れる事は出来ません」
これ以上は聞き捨てならないと、非難の対象とされている当の本人に進言するも、彼女はそれを受け入れようとはしなかった。
「だが、あんたが今まで言われてきた事は、諌言の範疇を超えている」
無礼なのは承知の上だった。それでも、言わずにはいられなかった。
「･･････ええ、その通りです」
「だったら、野放しにしていて良い筈なんか無いだろう？ このままでは、あんたは奴らの言いなりになるだけだ」
語気を強め、訴えても、女王の意思が変わる事は無い。胸元で固く両の手を握り、そっと首を横に振ってじっと俯く。
「エリンシア！」
業を煮やし、思わず細い肩口を掴んでその高貴な名を叫ぶ。不意に加わった強い力と大きな声に驚いて、エリンシアは華奢な身をびくりと震わせ、息を詰まらせながらアイクの顔を見上げた。暗い影を纏ったような表情が、恐怖の色に染まって行く。
「私だって･･････出来るものなら、そうしたい」
慄く唇から、哀願にも似た言葉が小さく紡ぎ出される。
「･･････されど、私がこうして王位に就くまでに、彼らが我が父とクリミアを支え続けてくれたのも、また事実なのです。その恩義を忘れてただ責めるなど、どうして出来ましょうか」
言いながら、エリンシアはアイクからそっと視線を逸らし、躊躇いがちに目を伏せた。酷く弱々しい声だが、その意思ははっきりと伝わって来る。エリンシアの強い決意にアイクも返す言葉を失い、掴んだ肩はそのままに、憂いの色を浮かべる表情をただ見下ろすだけだ。
「アイク様･･････貴方のお心遣いに感謝致します。ですが、どうかこれ以上私の事で心を煩わせないで下さい」
無理をしてこの場を取り繕うとしている事など、容易に想像が付いた。恐らくは、エリンシアも隠し通せないと分かっているのだろう。それでも、その言葉に嘘偽りなどは含まれてはいない。肩を震わせ、頼り無く立ち竦む姿ではあるが、その胸に秘めるのは国を統べる者としての確かな信念だった。
「･･････すまない」
やはり聞き届けられないのか。だが、最初から分かり切っていた筈だった。自分は、彼女に仕える数多くの者の内の一人に過ぎず、例え正しい事を主張したとしても、立場が違えばそれは一個人の感情でしかないのだ。良かれと思って進言しても、憂いに沈む心は軽くなるどころか寧ろその負担を増やすばかりで、これでは今自分がしている事も、彼らが女王に課して来たものと何ら変わりは無い。自らの考えの浅はかさに気付き、アイクは愕然とした。
これ以上自分の事で心を砕く事が無いように、それが彼女の望みだった。故に、その日を境に彼女は、自分の前で弱音を吐く事はしなくなった。否、しなくなったのではなく、出来なくなったのだ。何らかの機会に顔を合わせる事はあっても、彼女はただ困ったように笑うだけで、決して何も語ろうとはしない。変化する事の無くなった表情を見る度、自分が最後の逃げ道を閉ざしてしまったような気がして、焦りと苛立ちを覚えずにはいられなかった。だが、どれほど考えを巡らせても打開の策など見付からず、残された時間は僅かである事を、口にこそ出さないが、互いにはっきりと感じ始めていたのは確かだった。
「エリンシア、あんたに爵位を返上したい」
考え抜いた末に出した結論を、彼女はただ黙って頷き、静かに受け入れた。
「アイク様、今まで本当に有難うございました。どうかこれからは、貴方自身の為に生きて下さい」
言葉は本心からのものではあったのだろうが、それだけが全てではない事も薄々気付いていた。望んだとしても、その唇から紡がれる事など絶対に有り得ないと分かっていながら。
「･･････ちゃん。･･････お兄ちゃんってば！」
不意に声が聞こえて、アイクは意識を慌てて現実へと引き戻した。気が付けば、ミストが大きめの麻の袋を幾つも抱え、自分の目の前に立っている。
「･･････ん？ ああ、どうかしたか」
「悪いんだけど、ちょっと持っててくれない？ 私には重くて」
返事を待たずして、ミストは持っていたものを次々にアイクへと渡していく。思った以上の袋の数と中身の重さに面食らい、思わず手から滑り落としそうになるのを既の所で受け止める。
「なあ、ミスト･･････」
「何？」
「随分と多いんじゃないか？ 幾ら女王から貰った報酬金があるからといっても、無駄に使うのは良くないだろう」
「そうかなあ？ これでもあんまり買わないようにしているつもりなんだけど」
悪びれた様子も無く、平然とそんな風に言うものだから、流石のアイクも妹に対してはこれ以上抗う事も出来ず、無言で傾いた荷を抱え直すだけだった。その傍らでは、袋の大きさこそ違えど、自分と同じように押し付けられたのであろう、セネリオが荷を抱えながら眉を顰め、ティアマトに苦笑いされる光景があった。
徐々に店の並びも少なくなり、人の数もまばらになっていく。このまま道を東へ下って行けば、日が変わる前には砦に着くだろう。夕映えに浮かぶ王城の佇まいは既に小さくなり、かなりの距離を歩いて来たのだという事を認識する。
「ねえ、お兄ちゃん」
「何だ？」
「さっき買い物してた時なんだけどね。私、聞いちゃったの」
「聞いた？ 一体何を？」
「･･････『半獣』って。お店の人がそう言ってた。悲しむだろうな、エリンシア様が聞いたら」
ミストの言葉に、アイクの表情が一瞬固まった。現女王がデインに追われた際に、様々な場面で手助けをしてくれた異種族の者達を、未だに蔑称で呼ぶ者がいる。親ラグズを掲げるクリミアの精神は先代から続いているものであり、エリンシアも自身が即位してからずっと提唱し続けてはいるが、それでも完全に浸透し切ってはいない。人々の意識が変わるまでに掛けて来た時間は、自分達が感じて来たものとは裏腹に、まだそれ程多くはないのだ。
「偏見はそう簡単に消えないって事かしらね。単に、他の呼び方を知らないだけなのかもしれないけれど･･････」
「幾らこちらから主張しても、本人の意識を変えるような決定的な事項が無ければ、ただの雑音でしかありません。まして、自分達の自尊心や立場が揺らぐようであるなら、受け入れる事など到底出来ない」
「だからお城の偉い人達も？」
「恐らくは、そうなのでしょう」
「そっか･･････」
ミストがしゅんとした様子で肩を落とす。貴族達の度の超えた言動や行為を、真っ向から受け止め続けている女王の心情を憂いての事なのだろう。
「女王様にとっては、きっとこれからが正念場ね」
「ええ。人々が元の生活に戻り始めた以上、変化を求める事は益々難しくなる筈です」
「エリンシア様、大丈夫かなあ･･････。無理しなければ良いんだけど」
「外野があれこれ言った所で何にもなりませんよ。我々が女王と近しい関係であるならともかく、今はもう違うのですから」
「そうね、仕方の無い事だけれど･･････」
そう、仕方の無い事
──
三人が口々に言うのを聞きながら、ふとアイクは思案を巡らせた。今もこうして容易く女王の名を口にする事は出来てはいるが、これまでの経緯を考えればそれは奇跡に等しい。元より住む世界の違う者同士、本来なら近付く事も触れる事も許されなかったのだ。傍らに在る為に必要だったものはその手で捨てて来た以上、最早自分は王宮とは無関係な人間であり、今更何を言おうとも、その声が彼女の耳に届く事は決して無いだろう。
どうか、その自由はご自身の手で。最後に見えた時、そう彼女は言った。交わした契約がずっと自分を縛り付けていた、そう思っての事なのだろう。癒着したままの関係を続けていても、ただ徒に時を重ねていくだけでは意味が無かったし、何より元の傭兵に戻れると分かった時、やっとあの堅苦しい環境から解放されるのだと、心の底から安堵したのは紛れもない事実だった。
契約を終わらせる、それが互いにとって最善の策だった。彼女の下した決断に対してとやかく言うつもりは無かったし、自分にとっても何ら不満は無かった。思うも、安堵は直ぐに不安へと移り変わった。自分は晴れて自由の身となった。だが彼女は。これから先、城の者達はどんな言葉を投げ掛けるのか。対して彼女は何を感じ、何を思うか。そして、大きな後ろ盾を失った儚き心の拠り所は
──
考えるだけで、心は落ち着きを失い、鈍い痛みを伴って揺れ動いた。
本当にこれで良かったのか。王城の外へと続く広い廊下で一人佇み、渡された紙に浮かぶ文字を眺めながら、考える。契約を終わらせる事、即ち互いの関係を完全に断ち切る事は、確かに必要な事だった。だが、彼女と過ごした二年半という時の長さは、そう簡単に消えはしないのも確かな事だった。 今までの関係を全て無かったものとし、 互いに干渉する事無く、ただ与えられた環境の下で生きて行くなど、出来る訳がない。自分達が築いてきた関係は「契約」という条件の下でのみ成り立っていた、そんな希薄なものでは無かった筈だ。
その関係は、心は、一時的なものではなく、恒久に続くものであって欲しい。だから、せめてもと彼女に託してきたのだ。形として残る絆の証を。
「アイク、貴方はこれからどうするの？」
人気の無い道を辿りながら、ティアマトが訊ねる。空を朱に染めていた筈の陽の光は既に遠く、辺りに見えるのは僅かな民家の灯だけだ。
「そうだな･･････」
僅かに首を傾け空を見上げ、暫しの間思案する。
「まずは依頼をこなすのが先だろうが、落ち着いたらガリアに行こうと思う」
「ガリアに？ どうして？」
「親父に色々と報告しないといけないからな」
「そう･･････。きっとグレイルも喜ぶでしょうね」
「ああ。だと良いんだが」
程無くして、何処となく懐かしさのある風景が目の前に現れる。別れ道を真っ直ぐ進めば、団の砦はもうすぐそこだった。遠くで、先に出立した仲間達が立ち止まり、自分が来るのを待ち構えているのが見える。
「急ごう、お兄ちゃん。皆待ってるよ」
ミストの声に急かされ、先の道を小走りに下って行く。明日にも団の活動は再開されるだろう。自分達の助けを必要としている者達は、決して少なくはない筈だ。弱き者を助ける事は亡き父の遺志である。だが同時にそれは彼女の為でもあった。彼女が愛する祖国の民の憂いを無くし、少しでもその負担が減らせるのなら。それは、決して知られる事のない忠義であり、自分の胸の内にそっと留めておくべき事であった。
もう戻る事は出来ない。自分はこの地で、彼女は彼方の場所で、それぞれの歩みを始める。そっと後ろを振り返り、闇に埋もれて姿の見えなくなってしまった王城の方角を見ながら、例え叶わぬ望みだと分かっていても、せめて彼女の貴き表情がこれ以上哀しみの色に濡れないようにと、アイクは密かに願った。
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離れていても心は繋がっていて欲しいなあと常々思うのです
(2011/07/12)