悲しむ者は、記憶する
暗がりの天幕の中に眩い光が輝いて、行使する者と対象となる者を包むように収束していく。
光の中に浮かび上がる、目の前で眠り続ける銀髪の男をぼんやりと見つめながら、イレースはライブの杖を握り締めていた。
魔力を解放しながら、ふと思い出す。先程まであった戦いの事を。
夜半に行われたラグズ連合軍とデイン軍との戦い。先に衝突した獣牙の戦士達は、嘗て共に戦った仲間と対峙する状況を目の当たりにして、衝撃を隠せないようだった。その中には、イレースが見知っている者の名前も挙げられていた。
──
信じられない。あの男が我々を傷付けるなど。
そう話す仲間の声に、イレースは酷く胸が痛んだ。誰よりもラグズを愛し、時に自らの命さえも犠牲にしようとしていたあの人が、何故。
デインは彼の人の故郷。しかし、祖国と己が正義と、どちらを選ぶ事が彼にとって良いのか、イレースにはその答えが分かっていた。ずっと一緒に戦ってきた者同士なら、尚更の事だった。だから、何としても止めなければならなかった。
「イレース！ 何処へ行くの！？」
再び両軍が相見えた時、制止する仲間の声を振り切り、イレースはひとり本隊から抜け出していた。探さなければ。そして話をしなければ。相反する想いを抱えたまま、彼は何を考えているのか。そう思うと勝手に身体が動いていた。
古代語をそっと紡ぎ、雷精を自分の周りに集結させると、雷精の放つ光は周囲の景色と同化するように反射して、相手の目を眩ます。こうすれば、暫くの間は誰にも姿を見られる事は無かった。
術が続く時間は極僅か。それまでにあの人を見つけなければならない。イレースは決心して、地を蹴った。
金属同士がぶつかる音、傷付き倒れて行く人と獣。しかしイレースがそれを気に留めている余裕など無い。ただひたすらに、目的の人物を探していた。
影の術は、思いの外彼女の魔力を消耗していくらしい。一旦立ち止まって、自分を落ち着かせる為に何度も浅い呼吸をする。急いで何かをしようなんて、自分にしてみれば滅多に無い事だから、当然の事だったとも言える。でも、息が苦しいのはそれだけが原因では無かった。
まだ術を解いては駄目。せめてあの人を見つけるまでは。そう自分に言い聞かせて、交戦し合う者達の間をすり抜け、そうして漸くイレースの目に見覚えのある姿が飛び込んできた。
間違いない。あの人こそ自分が探していた人。確信して、イレースは雷精を解放し、力の限り叫んだ。
「ツイハークさん！」
不意に名前を呼ばれたからか、ツイハークは驚いた様子で声の聞こえた方を見た。
「イレース･･････」
「ツイハークさん、会いたかった･･････」
ツイハークの剣は既に血に濡れていた。やはり彼はこの剣で嘗ての仲間に刃を向けたのか。薄々分かっていた事とは言え、現実を目の当たりにしてイレースは動揺を隠せなかった。イレースの様子に気付いたのか、ツイハークもばつが悪そうに下を向いて、問うた。
「･･････何故君がここに？」
「貴方を、止めに来ました･･････」
「止める･･････？ 一体何が目的で？」
余所余所しい雰囲気のツイハークに、イレースの胸は鈍い痛みを伴う。だが、苦しいのは彼も同じだ。
彼だって、こんな形で互いの姿を再び見るとは思っていなかっただろう。
「だって、おかしいです･･････。貴方は、ラグズを護る為に戦っていた筈なのに･･････」
「･･････だが、俺の故郷はデインだ。祖国を裏切るような真似は出来ない」
剣を握り締めたまま、感情を押し殺すように呟く声が何とも痛々しい。何がこの人をそこまでさせなければならないのか。
居た堪れなくなって、イレースはツイハークの身体にしがみつくと、訴えた。
「自分の気持ちに嘘を吐いてまで、傷付け合う、それが大事な事だと･･････！」
それは嗚咽にも似た悲痛な叫びだった。
「･･････そんな事･･････貴方には、して欲しくない･･････」
ツイハークからの返事は無い。イレースもツイハークの服の裾を固く掴んだまま、動く事は出来なかった。掴んだ手は、自分の気持ちと同調するように微かに震えていた。
どうしたら、この人の心を動かす事が出来るのか、それだけの事にただただ必死だった。
しかし一方で、自分の身勝手な考えで酷な要求をしているのも事実だった。ここで彼が自分の願いを聞き入れれば、それは再び仲間を裏切るという事。恐らく、ラグズ連合軍の仲間なら快く彼を迎え入れてくれるだろう。でも、敵対する者達は何を思うだろうか？
デイン側には、短い間ながらイレースも共に戦った仲間がいる。その者達は、去って行く仲間を、自分を、許してくれるだろうか。葛藤するも、イレースの行きつく答えは最初と変わらなかった。
ツイハークはイレースの言葉に面食らっていた。そして、己の中で今一度問い掛けていた。自分にとって本当に選ぶべき道が何であるかを。
出来ればこんな状況でイレースとは会いたくは無かった。会ってしまえば、ひた隠しにしていた思いが揺らいでしまいそうだった。そして、心無い言動で彼女を傷付けてしまいそうだった。そんな愚かな姿など、絶対に見せたくは無かった。
──
嘘を吐いてまで。しかしながら、その一言がツイハークを現実へと向けさせる。
彼女はそれすら予期していたかのように、危険を顧みず自分を止めに来たのだ。どうやら、想像していたよりももっと正確に、イレースは自分の本音を見透かしていたようだ。そして、自分自身もこうして彼女に説得される事を望んでいたのかもしれない。
一度小さく溜め息を吐いて思考を止め、再び己に問う。自分の気持ちは何処にあるのかを。答えを導き出すのに、時間は掛からなかった。
「･･････ツイハークさん」
どうか私と一緒に。沈黙に耐えられなくなって、続きを言おうとしたその矢先、イレースの手の上にツイハークの手が乗せられて、軽く握られた。
イレースがはっとして顔を上げれば、先程よりも憂いの抜けた表情のツイハークが自分を見下ろしていた。
「･･････イレース、俺を連れて行ってくれないか」
「え･･････？」
「君に言われて分かった。･･････俺は、もう迷わない」
「あ･･････、じゃあ･･････。」
「ああ、もう大丈夫だ。将の所へ案内してくれるか？」
「･･････はい！」
やはり、彼は思っていた通りの人だった。そう簡単に人は自分の信念を曲げられる筈など無い。その事を、ツイハークも真正面から受け止めてくれたのだ。そして、そんな彼だからこそ説得したい、そんな思いがイレースにはあった。自分の考えていた事は間違ってはいなかった。
「良かった･･････」
イレースはほっとしてツイハークから離れる。
その刹那。
「！？ イレース･･････！」
「あ･･････、ごめんなさ････････････」
意識を失ったイレースの身体が、後ろへと大きく傾く。
気が付いて、倒れ込む前にツイハークはイレースを急いで自分の中へと引き寄せた。どうやら、思っていた以上に体力と魔力を消耗していたらしい。力の無くなった身体はぐったりとしたままツイハークに寄り添い、閉じられた瞳は微動だにしなかった。
このままでは危険だ。直ぐに仲間の下へ届けなければ。
後ろからは、数名のデインの兵が追って来ていた。構えられた武器は、間違いなく自分に対して向けられたものだった。
──
気付かれてしまったか。ツイハークは軽く舌打ちすると、イレースを抱えて本隊の方へと走り始めた。
次にイレースの意識が戻った時、既に戦いは終わりを告げていた。
目の前の景色が先程と全く異なるのに驚いて、イレースは半ば跳ね起きるように身を起こした。
自分がいる場所は、救護用の天幕の中だった。隣には、治療に当たっていたらしい、連合軍の将の妹がいた。
「吃驚したのよ。気を失ったままのイレースを抱えて、ツイハークさんが血だらけで来るものだから」
「え･･････？」
「イレースを先に介抱してくれって頼み込んで来たの。自分の方が大変な状態だったのに」
寝起きの自分に、その言葉は余りにも衝撃的だった。
状況を理解するより先に、イレースの身体は天幕を飛び出していた。
「あっ･･････、ちょっとイレース！ まだ寝てなきゃ･･････」
制止するミストの声は、イレースの耳には入らなかった。
天幕を包んでいた淡い光がゆっくりと消えて行く。
その様子を見届けて、イレースは小さく溜め息を吐くと、椅子の背に身を預けるようにして凭れ掛かった。
ツイハークがいると聞かされた天幕に着いた時、イレースの手にはライブの杖が握られていた。どうやら、無意識のうちに仲間の使っていた杖を持って来てしまったようだった。最後に杖を行使したのは三年前の戦争の時。果たして自分はその感覚を覚えているだろうか。一瞬不安が過ぎるが、それでもイレースの心は変わらなかった。そして、自分が思った通りに力は働いた。同時に、こんな時の為にもっと使い方をしっかり学んでおくべきだった、とも思った。
目の前で眠り続けるツイハークを見ながら、イレースは思う。
自分のした事は無茶だと分かっていた。当然最悪の事態だって考えられた。それなのに、何故。何がそこまで、自分を行動させるまで、掻き立てたのか。
思考を巡らせて行き着いた答えは、彼を助けたかった、という事だった。
否、それだけでは無い。自分は常に彼に護られてばかりだった。一緒に戦っていた時、ツイハークはイレースを庇うようにして、その身を第一に考えてくれていた。人の好意と名前を記憶しない自分を窘(たしな)め、人間として在るべき姿を教えてくれたのも彼だ。いつしか、ツイハークの存在はイレースにとって欠かせないものになっていた。だからこそ、今度は自分がツイハークを護りたかった。彼の力になりたいと、心底思った。それは、イレースが今まで生きてきた中で初めて持った感情だった。
──
それなのに。イレースは持っていたライブの杖を握り締め、固く目を閉じた。
また護られてしまった。己の力を過信したが故に、彼の肉体は傷付いた。自分が間違った事をしたとは思わない。しかし、見通しは考えていた以上に甘かった。もっと冷静に判断出来ていれば、気を失う程魔力を放出する事など無かった筈なのに。彼に迷惑を掛ける事など無かった筈なのに。今になって、己の無力さと浅はかさをイレースは思い知らされていた。
「････････････」
微かに身じろいだツイハークの口から、誰かを呼ぶような声が聞こえて来る。嘗ての恋人への贖罪だろうか。
人伝にその存在はイレースにも知らされていたが、実際にその名前を聞くのはこれが初めてだった。
胸が、息が、苦しい。イレースは胸元を押さえ、湧き上がる痛みに耐えた。
ツイハークの痛みを少しでも和らげたいと、自分なら出来ると思ったのに、それは自惚れだったのだと気付いてしまった。
彼の犯した過ちは、死の際まで離れず苛み続けるのだろう。それを自分ひとりの力で救おうとするなど、到底無理な話だったのだ。出来るとしたら、それはたった一人だけ。そして、その中にイレースが入り込む隙間など無かった。
彼の心は、今も別の場所に在る。どんなに時間を掛けても見えない、届かない、永遠の場所。それなのに、私は。
イレースは肩を震わせながら、視界の霞んでしまった瞳を手の甲で何度も拭った。
「･･････イレース？」
眠りから覚めたのか、ツイハークが声を掛けて来た。イレースは慌てて涙を拭くと、立ち上がって傍まで近寄る。
ツイハークはゆっくりと傷付いた身体を起こして、穏やかな表情でイレースを見つめた。
「･･････ツイハークさん」
「良かった･･････、君が無事で」
不意にツイハークの右手がイレースの方へと伸びて来る。伸ばした手は、イレースを求めていた。
察して、イレースが両の手で包むように触れると、呼応するかのように強く握り返された。
「ありがとう。君が、俺を助けてくれたんだ」
ツイハークの言葉に、イレースは首を横に振った。
「･･････私は、何も･･････」
何も出来なかった。先の戦いにしても、今にしても。ツイハークは優しい言葉を掛けてくれるのに、自分は労りの言葉も満足に言えない。言いたいのに、どんな言葉で伝えたら良いのか、分からない。もどかしい気持ちを抱えて、イレースは下を向いたまま動こうとはしなかった。
「･･････あっ･･････」
急に強い力で引き寄せられて、イレースは思わず声を上げた。
視界が動いた事に困惑していると、今度は背中に手が回された。柔らかく慈しむように、掻き抱かれる。初めての感触に、イレースは堪えられなくなって苦しそうに息を吐いた。
「･･････大丈夫だから」
だから自分を責めないで、そう囁かれた。
「俺なら、大丈夫だから」
ツイハークの言葉に、イレースの抑えていた感情の箍が外れていく。
いけない、彼の優しさに甘えては。そう思っていても、込み上げて来るものを拒絶する事は出来なかった。様々な思いが綯い交ぜになって、イレースは叫んでしまいたいような心境に陥った。ツイハークが自分の信念に従ったのと同じように、イレースの心も嘘を吐く事など出来なかった。
例え彼の力になれなくても、例え彼の心が自分に無くても。それでも、私は。
「･･････どうか、離さないで下さい･･････」
絞り出すような声で訴えると、ツイハークはゆっくりと、しかし力強く頷いた。
もう、何も考えたくは無かった。イレースは堪え切れずにツイハークの身体にしがみついた。
身体中を支配する肌の温もりを感じながら、イレースは、このまま時が止まってしまえば良いのにと思った。
人に心を寄せる事の喜びと悲しみを、この時彼女は初めて知った。
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ツイハークは罪作りな人だなあと常々思うのです
(2010/05/29)