傷は隠れて胸裡に生く
正の女神の裁きが下され、生命活動を行う全ての者が石と化した一種異様な静寂の中、確かな生命の息遣いがここにはあった。
煙るように漂う砂塵、残された無数の足跡、地面を染め上げる生々しくも鮮やかな紅の色。それはこの場に命ある者達が、但し一方は仮初めの生という形ではあるが、集まっていた証拠だった。在るべき姿を歪められた者達を天上へと返すという名目の下、互いが激しく衝突し合っていたのは今し方の話。そして、その原因を作った奇才と呼ばれし男は、最早この世にはいない。
地上を覆う熱気の名残を感じながら、同じ場所に留まっている影が二つ。否、留まると言うよりは寄り添うと言った方が良いのかもしれない。片方は疲れ切った身を横たえて、そしてもう片方は見守るような形で腰を下ろして、互いに何も言葉を発しようともせず。聞こえて来るのは、微かにざわめく木々の揺らぎだけだった。
最近になって、過去の恋人の話を聞かされた。人伝に薄らとその存在を知ってはいたものの、はっきりと本人の口から伝えられたのはこれが初めてだった。
何故そんな大切な話を私にするのですか。一通り話が終わった後で、イレースはツイハークに問うた。互いの種族が相容れない事が当然のように罷り通ってしまっている今の世界では、先の話が非難の素になるのは容易に想像がつく。それに話してしまえば、例え当人同士で気を付けていたとしても、何処からか綻びが生じて、直ぐに人から人へと話が伝わってしまう危険だって充分にあった。それなのにどうして。イレースには理解出来なかった。
「君になら打ち明けられそうな気がしたんだ」
そう言ってふっと表情を緩めるツイハークに、イレースは余計に困惑した。だからといってそれ以上追及する事も出来ず、ただ「そうですか」と小さく頷くのが精一杯だった。出会ってから別れるまでの軌跡の欠片、それはツイハークにとっては甘くも苦い記憶だったのかもしれないが、自分にとっては心が痛むだけでしか無かった。そして、その原因に気付かない振りをする時期はとうに過ぎていた。
「･･････あの人を討つのですか」
戦いが始まる少し前、僅かに厳しい表情を見せるツイハークにイレースは訊ねた。彼は声を掛けられた事に些か驚いたようだったが、直ぐに「ああ」と頷いて益々表情を固くさせていた。
「言ったんだ、彼女が。怒りや憎しみに身を任せてはいけないと」
でも今度ばかりは、そう付け加えて、ツイハークは更に言葉を続ける。
「俺は敢えて、その遺志に反そうとしている」
戦場に私情を挟むなどあってはならない事は周知の事実の筈だった。それでも彼がそう思うのは相応の理由があっての事。デインを再興する為に協力していた筈の男は、敵としてその脅威をこちらへと向けていた。祖国を弄び貶めただけでなく、本来平等に存在する筈のラグズの生を歪めた罪は、決して赦されるものではない。ましてやそれが、嘗て愛した人と同じ種族であるなら尚更に。ツイハークの内にある静かな激情を、イレースもぼんやりと感じていた。
無尽蔵に湧いて出るなりそこないを蹴散らしながら、イレースは目的の男を必死に探し出そうとするツイハークの姿を見ていた。一度生命体を狂わされ、文字通りただの獣になってしまったラグズはどんな手段を以てしても、もう元には戻らない。出来る方法はただ一つ、その命を断ち切る事だけ。護りたいと思っていた種族を自らの手で葬らなければならない事実に、ツイハークがどれだけ苛まれているかと思うと、イレースは苦しくて堪らなかった。
(もし感情の赴くままに行動を起こしたら、彼女は許してくれるだろうか
──
)
ふと脳裏に、出撃前に聞いた最後の言葉が蘇って来る。恐らく、彼が抱えている激情は自分が想像しているものよりもずっと強く深いもので、当人を目の前にした途端に一気に噴き出すのだろう。今はまだ己の内に留めているが、箍が外れるのは時間の問題だった。
「･･････ツイハークさん？」
不意に剣を払っていたツイハークの動きが止まる。どうしたのかと思ってイレースは不安そうに訊ねるも返事は無く、ある一点に視線を送り続けている様子だけが見て取れた。
ツイハークさん、もう一度声を掛けようとして、次の瞬間にイレースは思わず息を飲んだ。想像し得なかった。今正に新たななりそこないを召喚しようとしていた人物そのものの姿が、目の前に映し出される事など。
「イズカ殿･･････これが貴方の本性だったのか」
討つべき存在を見つけたその声は静かに震えていた。何時も穏やかに構えている筈のツイハークが、こうもはっきりと感情を露にするのをイレースは初めて見たような気がした。
敵として現れた自分達の姿を見ても、イズカは動じない。寧ろ、自らの実験の成果を見せる最大の好機だと、今あるこの状況を愉しんでいるようにも見えた。半獣などただの実験材料に過ぎないのだと嘲笑い、自身の才を狂信する愚者に対して、ツイハークは表情こそ変えずにいたものの、剣を握り締める手の力は抑えようが無かった。容赦の無い言葉の一つ一つが心に突き刺さり、衝動へと追い立てようとしていた。相手の挑発に乗せられているのだと分かっていても、今まで封じ込めていた感情は己の意思で制御出来ない程に膨れ上がっていた。
「駄目です･･････」
血の筋がはっきりと浮かび上がる程に握られた手に、イレースは自分の手を乗せて制止させようとする。貴方自身が言われていたではありませんか。負の感情に囚われてはならないと。そう訴えるように影を落とす瞳を見つめるも、その色が変わる事は無かった。
「･･････イレース、すまない」
やはり無理だ、固く結ばれていた口が僅かに動いて、重ねられていた手が振り払われる。
「貴方の犯して来た数多の罪、その死を以て償って貰う･･････！」
ツイハークが剣を構え懐に飛び込むのと同時に、その周りで禍々しい空気が立ち込め始めていた。
息苦しくなるような感覚と、全身を覆うように纏わり付く黒い影。それが闇魔法の詠唱によるもの、それも、最も強大な力を持つ術が放たれようとしているのだと、イレースが理解するのにそう時間は掛からなかった。
「ツイハークさ･･････」
全身を締め付けるように圧迫する感覚に耐えながら、イレースは必死にツイハークの名前を呼んだ。しかし、その声が彼に届く事は無い。視界を遮るように澱む漆黒の霧はイレースの目の前からツイハークの姿を消し去り、気付かせる事もその様子を窺い知る事も出来なくなっていた。
何て悲しい顔
──
イレースは不意に、最後に見たツイハークの表情を思い出していた。ツイハーク自身が敵を討つ事に抵抗など無いのはイレースにも分かっているし、討つべき相応の理由が彼には充分にある。自分達を混沌へと陥れた、その元凶を断つ事で、失われた者達への手向けにする、そんな目的もあったのかもしれない。
それならば。イレースは再び思案した。何故彼が見せた表情を悲しいと感じたのか。何故怒りと憎しみだけでなく、何処か迷いにも似たような表情をしていたのか。その原因をイレースは知っていた。
『感情に身を任せては
──
』
記憶の中から蘇る一つの言葉。気付いてイレースは戦慄した。
(駄目･･････！)
止めなければ。イレースは思った。もしこのままツイハークが目的を達成してしまえば、それは過去の恋人の言葉に背く事を意味していた。嘗て愛した人の戒めにも似たような誓いを破る、それがツイハークにどのような結果をもたらすのか、考えるだけで目を逸らしたくなるような感覚に苛まれる。彼の心にはこれまで背負ってきた数々の記憶が今でも鉛のように重く付き纏っているのに、これ以上の苦しみが増えるだなんて、考えたくは無かった。
辺りを覆い尽くす闇の色が不意に動きを変える。もう時間はあまり残されてはいない、決心して、イレースは抱えていた魔道書を取り出すと、書かれている古代語をそっと紡ぎ始めた。どうか、あの人にとっての彼が変わらないように
──
そう願いながら。
雷精を集結させ、同時にもう一つ、別の魔力を呼び寄せる為の詠唱を始める。自然の理から外れた力を持つが故に、禁忌として扱われてきた術を。本音を言えばあまり行使したくは無いのだが、これが闇魔法に対抗する為の唯一の手段でしか無かったし、ツイハークを止めるという強い決意がイレースの背中を後押ししていた。
緊迫した空気の中、自分でも驚く程に神経が研ぎ澄まされていた。強大な雷の力と、相手の護りの術を打ち崩す力と、二つの魔法を同化させて一気に解放させる。轟音にも似た雷鳴と闇を裂く閃光が一瞬にして視界に映る色を変えた。身体中が分離しそうになる感覚に襲われながら、屈するのをやっとの思いで堪えて、もう一押しと言わんばかりに魔法の文言を紡ぐ。自身の持つ全ての力を放出する瞬間に辺りを覆っていた闇が消え去り、その先でツイハークの持っている剣が光を帯びて煌めき、法衣を掠めるのが見えた。
戦場に残る特有の熱気と、静かに流れて行く冷たい風。相反する空気を感じてイレースは閉じていた瞼をそっと開ける。
「･･････良かった、気が付いたんだな」
聞き覚えのある穏やかな声にそちらへと視線を送ると、ツイハークが傍らで自分を見下ろしているのが分かった。
「･･････あ、私･･････！」
気を失ってしまっていたのだと理解し、慌てて身を起こそうとすると、身体の奥から込み上げる強烈な不快感に気付いて、イレースは咄嗟に口元を押さえる。
「！ 大丈夫か･･････！？」
「･･････ごめんなさい、少しだけ気分が･･････」
今まで使った事の無い魔法を、それも最も強力なものを二つ同時に行使したのだから、代償は少なく無かったのだろう。だが、身体の不快感はそれだけが原因では無かった。自分の持つ魔力は全て出し切り、抜け殻同然の状態である筈なのにも関わらず、何とも受け入れ難い別の力が体内を支配しているような、気味の悪い感覚。それは先にイレースが見た闇の力と酷似していた。
「･･････君が使ったのは、大賢者の奥義。そうなんだろう？」
傍らでイレースの背を支えてやりながらツイハークが問うと、イレースは一瞬顔を曇らせて、直ぐに小さく頷いた。不快感のもう一つの原因、それは相手の生命力を自らの生命力に転換するという、魔道を極めた者だけが知り得る禁術の反動によるもの。イレースの身体に廻る力は、先に対峙した狂信者の力。理と闇、正反対の力を受け入れた事によって身体中が拒絶反応を起こし、イレース自身を苛めているというのが今の状態だった。
「･･････あの人はどうなったのですか」
もしかしたらと思っていても、やはり確証が欲しい。そう思ってイレースはか細い声でそっと訊ねると、ツイハークがゆっくりと首を横に振った。もうこの世の者では無いと、無言の内に伝えているようだった。
そうですか、溜め息をふっと一つ吐いてから、イレースの表情が直ぐに不安の色に染まる。敵将が倒された、それがツイハークの手に因るものなのか、それとも自分が。ツイハークさん、貴方なのですか。ぱっと顔を上げ、落ち着きの無い心持ちで怪訝そうにツイハークを見つめれば、先程と同じように否定の意が返って来た。
「俺じゃない。･･････イレース、君が」
自分の剣が届くより先に自分の放った雷光が敵の身を貫いたと、そう告げられた。同時に、肩口を緩く掴まれてイレースの身体がぴくりと小さく跳ねる。憂いとも怒りともとれる、何とも複雑な表情が視線の先に続いていた。
「何故あんな無茶な事をしたんだ」
穏やかな声は変わらないが、追究する口調はイレースの知っているものより些か強いように感じた。
「･･････ごめんなさい」
ツイハークは自分が敵を討てなかった事を責めているわけでは無い。イレースが己の身を顧みずに、それこそ魔力が尽きるのも構わずに力を行使した、その無鉄砲さを責めていた。
「でも私は･･････貴方の手を穢したくは無かったんです･･････」
身体の奥に燻ぶる気分の悪さを堪えながら、イレースは呟く。怒りや憎しみに身を任せてはいけない、あの人がそう貴方に望んだのなら、その信念に従うべきだった。あの人の記憶にある貴方を変えてはいけない。そして貴方があの人を本当に愛していたのなら、大切な人の言葉を裏切るような真似はしないで欲しかったのだと。
「･･････俺が話さなければ、君をこんな目に遭わせずに済んだのか」
「私が勝手にやった事です･･････。ツイハークさんは、何も」
何も悪くありません、言う前にイレースの唇の上にツイハークの指が触れて、続きを止められる。
「まだ辛いんだろう？ もう暫く、横になっていた方が良い」
恐らくはこれ以上弁解せずとも、互いの思う事は想像がつくのだろう。察して、イレースもツイハークの言葉に何も返す事無く、促されるままその身を再び地に横たえた。気味の悪い感覚はまだ抜けないが、それでも最初に感じた時よりはずっと慣れたように思えた。
風に煽られて、傍らに置いてあった魔道書がぱらぱらと音を立てて捲れて行く。文字の抜け落ちた箇所をぼんやりと見ながら、イレースはふと思案する。もしツイハークがあのまま、あの忌まわしき呪術師を討っていたらどうなっていたのかと。散って行った仲間達の恨みを晴らしたと思えば、多少は救われるのだろうが
──
やはり彼の人の言葉に背いたという事実は、ツイハークの心に重く圧し掛かったに違いない。
怒りや憎しみに身を任せてはいけない、その言葉はイレースにとっても同じ事だった。いつまでも穏やかで優しいツイハークの姿であって欲しかった。だからこそ、無茶だとは分かっていても躊躇う事など自分の選択肢には無かった。
けれども。イレースはもう一つ、別の考えを巡らせた。自分がツイハークを止めた事で、言い方を変えれば自分が阻害した事で、私情に無関係の人間を巻き込んだという後悔の念を彼に持たせてしまった。無論、そんなつもりなど自分には無かった筈なのに。
結局、どちらに転んだとしてもツイハークが苦しむ事に変わりは無かったのだ
──
ここに来てイレースの心には、果たして自分の行動が正しかったのかという迷いが生まれていた。だがそれも最早終わった事。どんなに思いを馳せようと、もう失われた過去は戻って来ない。
「･･････何処で俺は間違えたんだろうな」
誰に聞かせるでもなく、ツイハークが静かに呟いた。感情を抑えられなかった事からなのか、全てを打ち明けた事からなのか、それとも異種族を愛した事がそもそもの始まりだったのか。しかし、その問いにイレースは答えようとはしない。否、答える事など出来ないのだ。
「･･････戦争は嫌いです」
少しの間を置いて、イレースは微かに唇を動かした。人同士の衝突は混沌を生み、何が正しくて何が間違っているか、簡単な事すら分からなくなってしまうから
──
今はそういう事にしておきたかった。それは半ば自棄にも近いような思いだった。
「･･････イレース」
ツイハークの手が、そっとイレースの頬を撫でる。その真意は分からないが、イレースにとっては酷く優しいものに感じられた。いつもと変わらない、イレースの知っているままのツイハークだった。
彼の気遣いは逆にイレースの心を軋ませた。自分で招いた事なのだからその必要など無いのに、胸が鈍く痛んだ。しかし、ツイハークの抱えている複雑な感情に比べたら、己の痛みなど大したものでは無い。誰にも気付かれないように、そっと胸の内に抑えておけばそれで良かった。
「少しの間だけ、休ませて下さい･･････」
そう言って、イレースはそっと両の目をゆっくりと閉じる。離れた場所から微かに死者を弔う為の声が聞こえて来たが、イレースの耳はそれを受け入れようとはしない。これ以上何も考えたくは無かったし、感じたくも無かった。だから、意識が現実と離れる寸前に、小さく「すまない」という言葉が聞こえたのも、きっと気のせいだった。そう思う事にした。
辺りでは、イレースの心と同調するように木々が揺らいでいた。眠りに就いても、その揺らぎは止まる事が無かった。
Back
自分の書くイレースはどうやらアグレッシブらしいです。何だか色々重くて申し訳ありません･･････
(2010/10/29)