其は穢れなき
※若干の流血描写を含みますので、ご注意下さい
夜も更ける中、仲間達との定例会議を終えたレオンは一人、拠点の廊下を歩いていた。時節柄、昼間は穏やかな光が降り注いでいるが、日が沈むと忽ち辺りには冷気が立ち込めてくる。寒さに対して多少の耐性はあるものの、だからといって、いつまでも留まっていられるというわけではない。その歩は自然と早くなり、薄暗い廊下の壁には忙しなく動く影が薄らと映し出されていた。
長い廊下を半分ほど進んだ所で、レオンの歩みがぴたりと止まった。いつもなら消えている筈の部屋から、仄かに灯りが漏れ伝っているのが見える。自分の記憶が正しければ、そこは仲間達が日中に鍛錬をする為の場所で、こんな夜の遅い時間に使われているという事は、滅多に無かった。誰かが人目を忍んで、己の腕を磨いているのだろうか。随分と熱心な輩もいるものだ。そう脳裏に独り言を思い浮かべ、レオンはその場を通り過ぎようとした。と、その時。
「あれは･･････？」
部屋の入り口から垣間見えた人の姿に、思わずレオンの口から声が出た。彼が見た者、それは今この場所にいる事など考えられない、そんな人物だった。自室に戻ろうとしていた歩みは、自然にそちらの方へと向けられる。静かな空間に、硬く乾いた靴底の鳴る音が響き、向こうも気付いたのか、はっとした様子でこちらを振り向いた。
「サクラ王女」
「あ･･････！ レ、レオンさん･･････」
華奢な身体が小さく跳ねるのが、少し離れた位置からでもはっきりと分かった。誰かが来て驚いたのと、声を掛けられて驚いたのと、恐らくはその両方なのだろう。構わず、距離を縮めてその隣に陣取る。互いに並んだ瞬間、困惑している表情が、益々その色を濃くしていった。
「･･････あ、あの、どうしてここに？」
「たまたま通り掛かったら、誰かの気配がしたからね。気になって覗いてみたんだ」
「そ、そうでしたか･･････」
言いながら、ふとレオンはサクラが持っている物に目を留めた。その手には青銅製の和弓が握られており、腰には矢筒が括りつけられている。視線を少し先に送れば、そこには幾つも矢の刺さった的が立っていて、今まで彼女が何をしていたかを、無言の内にレオンに伝えていた。
「ここで弓の練習を？」
「は、はい。少しでも、上手くなりたいと思って･･････」
「そうだったのか。あなたにそんな心得があるとは、知らなかった」
「昔、母様に教わった事があったんです。それで、久し振りにやってみようかなと･･････」
「成程ね。でも、何もこんな遅い時間に練習しなくても良いのでは？」
「そ、それは･･････」
思った事をそのまま聞いただけなのだが、サクラは急に押し黙ってしまった。聞かれたくない事を聞かれてしまった、そんな風にも見えた。弓を持つ手が、少しだけ震えている。
「サクラ王女？」
「あ･･････ご、ごめんなさい･･････！ ええと、私･･････私は･･････」
何かを言いあぐねているサクラを、レオンは怪訝そうに見つめた。改めて状況を整理すると、疑問に思う点が幾つも出て来る。練習するのは久し振りだと確かに彼女は言っていたが、幾つか外した矢も数本床に落ちているとはいえ、八割方は的の何処かしらを射抜いていた。その感覚を『久し振り』と形容するのは、何か違う気がする。しかも、練習しているのはこんな夜も更けた時間に、まるで人目を避けるようにしているかの如く。そして何より、今まで人を癒す事に重きを置いていた彼女が、何故急に武器を扱うような事を始めたのか。それがレオンには分からなかった。
「サクラ王女、まさかとは思うけど」
様々な憶測を脳裏に浮かべ、やがて思い当たる答えを見つけたのか、レオンはサクラに問い掛けた。
「あなたは戦いたいと思っているんじゃないのか？ その弓で、僕達と一緒に」
言った瞬間、サクラの口から短い吐息が漏れる音がはっきりと聞こえた。彼女は固く弓を握り締め、暫く黙ったまま俯いていたが、やがて観念したのか、ばつの悪そうに小さく頷いた。
「･･････す、すみません。変だと思ったでしょう？」
「いや、別に。きっとあなたの事だ。ずっと護られているばかりでは嫌になって、自分でも戦える術を持ちたい。そう思ったのでは？」
「その通りです。･･････レオンさんに、隠し事は通用しませんね」
一度見抜かれてしまっては、もう誤魔化しが利かないと分かったのか、今度は素直にサクラは頷いた。人を傷付け、人が傷付けられる姿を見るのは嫌だと語っていた彼女が、そこに最も近い領域へ入ろうとしている。並大抵の覚悟で決めた事では、決してない筈だった。それは彼女の本質に触れた事がある自分だからこそ、理解出来る。だから、レオンも敢えて、サクラを責めるような言葉を言おうとは思わなかった。
「いつ頃からこうして練習を？」
「レオンさん達が合流して、少ししてからです。兄様達には最初、反対されましたけど、後になってから私の気持ちを汲んでくれて、好きなようにしたら良いと言ってくれました」
「そうだったのか。･･････まさか、独学じゃないよね？」
「時間のある時は、タクミ兄様が見て下さっています。でも、いざ戦場に出るなら全部自分一人でやらなきゃいけないから、ちゃんと一通りの事は出来るように練習しておいてって言われました」
弓を持つサクラの手に、僅かに力が入る。レオンは今一度、サクラと視線の先にある的に目を向けた。その手に握られている弓は、確かに初心者が扱う類のものではあるが、決して実戦で使われないわけではない。そして、的に当たった矢の数も、及第点と言って良いのだろう。彼女にとっての『その時』が来るのは、そう遠くは無い筈だった。
「･･････サクラ王女」
暫し思案したのち、レオンはゆっくりと口を開いた。
「な、何でしょうか･･････？」
表情一つ変えずに淡々と話し掛けるレオンを、サクラは不安そうに見つめた。何かに怯えるような様子のサクラに、レオンは次の言葉を言うべきかどうか、躊躇する。しかし、言ってしまった以上は続けるべきなのだろう。この場に居合わせた縁もある。そう思い直して、再び口を開いた。
「あなたがこれから相手にしていくのは、生身の人間だ。その意味は分かるね？」
「！ は、はい･･････」
サクラの目が、はっきりと動揺の色一色に染まった。恐らくは、一番触れて欲しくなかった部分であったに違いない。それでも、実際に彼女が戦場に立つのであれば、決して目を背けてはいけない現実でもあった。レオンは敢えて、サクラにその重さと向き合わせようとしていた。
「的は動かないし、何の感情も見せない。でも、実際の戦場は違う。･･････例えばこんな風にね」
レオンはおもむろに歩を進め、サクラとの距離を開けていく。何をするのかとサクラが呼び止める声が聞こえたが、レオンはそれを無視した。的と同じ場所まで辿り着いた所で足を止め、ゆっくりと振り返る。先程とは全く違う、別の感情を込めて、レオンはサクラを見つめた。
「あ･･････」
サクラの口から、驚愕にも恐怖にも似た溜め息が漏れる。射抜くような鋭い視線に、思わず戦慄した。その視線は、戦場で彼が放つ光と同じもの。『冷血』と謳われる、レオンそのものだった。
「･･････サクラ王女、僕を撃て」
あなたのその弓で、その力で。冷徹にレオンは言い放った。視線の先にいるサクラは、明らかに動揺していて、心苦しいと言う顔を見せている。予想通りの反応だった。
「･･････駄目･･････駄目です･･････！ そんな事出来ません･･････！」
サクラは懸命に首を横に振って答えた。しかし、レオンは厳しい姿勢を崩さない。護身用に携えていた魔道書を取り出して、その身に焔の渦を纏わせる。冗談などでは無い。間違いなく、彼は本気で自分と相対している。そんな思いが、サクラの恐怖心を益々煽った。
「サクラ王女、よく聞いて。戦場では一瞬の隙も油断も許されない。もし相手が明確な殺意を抱いていたなら、どう対処しなければならないか、あなたには分かる筈だ。今、僕はあなたに対して敵と同じ事をしようとしている。だったら、あなたはどうすれば良い？」
我ながら酷な事を言う。密かにレオンは自嘲した。それでも、言わなければならなかった。何故なら、これは彼女自身が乗り越えなければいけない壁だったから。
「無茶な要求をしているのは承知の上だよ。でも僕は、あなたの決めた道を確かなものにしたいだけなんだ」
「レオンさん･･････」
「大丈夫。あなたの放つ矢など、僕にとっては脅威になんかならないよ。だから、何も考えなくて良い。ただ撃つだけで良いから」
不安そうに眉を顰めながら、サクラはレオンを見つめる。鋭い眼光は、その身だけでなく心まで突き刺してしまいそうな程で、サクラはこの場から逃げ出してしまいたかった。しかし、サクラとてレオンの行動の真意が分からないわけではない。何とかして彼の思いを受け止めようと、視線を逸らさず、じっと黙って立ち尽くしていた。
「改めて言うよ。サクラ王女、僕を撃て。あなたの覚悟を、僕に見せて」
そう言って、レオンは身に纏わせた焔の勢いを強めた。自分がどれだけ真剣に彼女と向き合っているかを示す為に。そして、彼女が迷いを断ち切って決断を下せるように。互いに見つめ合ったまま、対峙するような状態が続く。もし、これが本当に敵対するような立場なら、実際に起こり得た光景なのかもしれない。そんな事を薄らと頭の奥で思い描きながら、レオンはサクラの答えを待った。
「･･････分かりました」
覚悟を決めたのか、サクラは静かに頷いた。ゆっくりと弓に矢をつがえ、矢尻の先をレオンに向ける。その手はまだ震えていたが、狙いを定める目に迷いは無かった。良い目をしている。そうレオンは思った。それだけの強い意志があれば、きっとこの後に待ち受けている事も、全て受け止め、乗り越えて行ける筈だ、と。
「行きますよ、レオンさん･･････っ！」
出来る限り弓を引き絞り、意を決すると、サクラはレオンに向かって一閃を放った。手練れの者ほどの勢いこそ無いものの、放たれた矢は真っ直ぐにレオンの方へ向かってくる。それは訓練の賜物であり、サクラの覚悟が本物であった事の証だった。彼女は思った通りの人間だ。その事に、レオンは安堵のような思いを抱いた。
不意に、レオンの周囲で渦巻いていた焔の軌跡が、ふっと消える。次の瞬間、目に映った光景に、サクラは悲鳴にも似た声を上げた。きっと彼の事だから、矢を避けるなり、その焔で掻き消してしまうなりすると思っていた。しかし、実際はそうではなかった。レオンは意図的に魔法を解除し、サクラが放った矢をその身に受けた。掠めた矢が彼の頬を僅かに裂き、紅い鮮血を滴らせる。
「
──
っ！！ レオンさん！！
」
無意識の内に、サクラは持っていた弓を放り出し、悲痛な叫びを上げてレオンの傍に駆け寄った。その目には、疑念と畏怖と悲哀と、様々な感情が揺らいでいる。
「待ってて下さい、すぐに治療を
──
」
レオンの頬を伝う血を拭おうとして、サクラは懐に収めていた手巾を、慌てて取り出そうとする。しかし、咄嗟にレオンはサクラの手を掴み、その動きを制止させた。目と目が合った瞬間、動揺したサクラの身体が、こちらからはっきりと分かる程にびくりと大きく跳ねた。
「施しなど、必要ない」
吐き捨てるように、レオンは言った。
「あなたが今感じている痛みに比べたら、こんなもの、痛みのうちになんか入らないよ」
今にも泣き出しそうな顔をして見上げる視線を受け止めながら、レオンは言う。それは、偽らざる本心からの言葉だった。
「試すような真似をしてしまって、申し訳ないと思っている。でも僕は、今の内にあなたに知っていて欲しかったんだ。生身の人間は、感情をむき出しにしてくる。それから
──
」
レオンは掴んでいたサクラの手を、傷付いた己の頬にゆっくりと宛がった。白く細い指先と手の平が血で滲み、指の間からは、紅く生温い熱が徐々にその道筋を浸食していく。
「生身の人間は、こうして血を流す。･･････この感覚を、どうか忘れないで」
レオンに言われて、堪え切れなくなったサクラの目から、大粒の涙が零れた。本当なら、声を張り上げてしまいたいところだろうが、じっと唇を噛み、震えながら、溢れ出る感情を必死に抑えようとしている。その姿が、レオンにはいじらしくも羨ましく映った。サクラが今感じているであろう感情は、自分には無縁のものだったから。
まるで時が止まってしまったかのように、互いに立ち尽くした状態で、微かに呼吸する音だけが耳元に届く。このまま永遠に続くのではないかと錯覚してしまいそうになったが、思う事があったのか、サクラの唇が僅かに動いた。
「･･････決して忘れません。レオンさん、あなたが身を挺して伝えようとして下さった、大切な事を･･････」
涙に濡れた顔のまま、サクラははっきりとレオンに言った。
「･･････きっと、悩む事もあると思います。でも、それに負けないくらい、私は強くなります。戦場に立っても、皆さんのお役に立てるように、強い心を持った人になります」
だから、どうか見守っていて下さい。そう呟いて、サクラは目を伏せ、首を垂れた。
「･･････あなたは充分に強い人だよ」
居場所を無くしていたレオンのもう片方の手が、そっとサクラの身体を抱き寄せる。もしかしたら拒まれるかもしれない、一瞬そう過(よ)ぎったが、抵抗は無かった。頬に添えさせた手は、変わらずレオンの血を受け止め、腕の中では悲嘆に打ちひしがれた身体が、あつらえたかのように収まっている。何か声を掛けた方が良いのかもしれないが、これ以上相応しい言葉が出て来ない。彼女に痛みを植え付けたのは、他でもない自分自身だというのに。ここに来て、レオンは自らの内から湧き出て来る蟠りを自覚し始めていた。
覚悟を決められないのは、自分の方かもしれない。頬に触れる健気で純粋な温もりとは対照的に、慰める為に背中に回した手は、あまりにも空虚で無力だった。
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下手に甘やかさないのが、彼なりの優しさ
(2015/10/24)