長い一日
薄い障子戸を遠慮がちに開ける音が聞こえて、エリーゼははたと音のする方を見た。
「ごめん、待たせちゃって」
障子を開ける動作と同じく、声もまた遠慮がちだった。エリーゼは読みかけの本に栞を挟むと、近くにあった本棚の奥へと仕舞い込んで、障子戸の方へと近付いていく。エリーゼの動きに呼応するように、声の主はゆっくりと蝋燭に照らされた部屋の中へと入ってきた。
「お帰りなさい。随分遅かったのね」
「途中で色んな人に呼び止められてたんだ。本当は、もう少し早く戻るつもりだったんだけど」
短い溜め息に合わせて、白銀色の長い髪が微かに揺れる。「普段なら、こんな事滅多に無いんだろうけどね」と呟きながら部屋の奥へと進んでいく姿を見届け、エリーゼもその後に続いていく。しかし、その歩みはどことなくぎこちない。目の前の人物には見えないようにそっと胸に手を押し当て、深い呼吸を何度か繰り返す。待ち望んでいた相手が戻って来た、ただそれだけの事なのに、さっきから、そして本を読んで待っていたその間も、やけに心がざわついているのは何故なのだろう。
「改めて、今日はお疲れ様」
「こちらこそ、お疲れ様。タクミさん」
二人、向かい合うように座って互いの労をねぎらう。今日は二人の婚礼の儀式が盛大に行われ、どちらもその主役として、朝から晩までずっと人前に出突っ張りだった。祝宴が結ばれた後も親しい間柄の者達で集まり、そうしてひとしきり騒ぎ合って、やっと二人きりの時間を持てたのが、ちょうど今、この時だった。
「長い一日だったね、本当に･･････」
「うん･･････。まさか、結婚式があんなに大掛かりなものになるなんて、あたしちっとも思わなかった」
「仕方ないよ。僕らは王族同士なんだし、相応の接待をしなければ、来てくれる人にも失礼になってしまうだろう？」
「う、うん。そうだよね」
言いながら、エリーゼは気が気ではなかった。どうにかして、この逸る気持ちを鎮めたい。そう思っても、奇妙な感覚はよりその強さを増すばかりで、エリーゼは密かに困惑していた。
互いに座っているのは、柔らかい敷布の上。それも二組、きっちりと隙間無く並べられている。目の前にいるのは、一生を添い遂げると誓い合った良人。そして、今日は晴れの門出を祝う日。これだけの条件が揃った中で、何も考えないでいられる方がどうかしているのだ。
「寝なくて良いの？」
「えっ･･････？」
不意に声を掛けられて、エリーゼは慌てて考えていたものを脳裏の片隅へと追いやる。いつの間にかタクミは用意された掛布を腰の辺りまで掛け、枕を支えに片肘をつき、じっとエリーゼの表情を見つめていた。
「今日は君も疲れただろうから、明日に備えて早く寝た方が良いかなって思ったんだけど」
「あ･･････う、うん。そしたら、お言葉に甘えてそうさせて貰うね」
どうにかその場を取り繕い、エリーゼももう一つの掛布を肩口まで被る。タクミはエリーゼの就寝の支度が整った事を見届けると、やおら身を起こして、傍らに置いてあった行灯の火にふっと息を吹きかけて消した。辺り一面が暗くなり、格子窓の隙間からは月の青白い光だけが薄らと覗く。
「おやすみなさい･･････」
「うん、おやすみ･･････」
短く声を掛け合い、それから時を待たずして、部屋全体に静寂に包まれた空気が広がっていく。
掛布の上端を握り締め、木目調の天井を見上げながらエリーゼはふと考えていた。自分のこの状況は果たして『例外』なのか、そうでないのかを。自分はまだ他のきょうだいや仲間達よりも年若い。でも、確かに自分はこの人と結婚した筈なのだ。一緒になった以上、そこには様々な責任や役割が伴う。無論、夜を共に過ごすという中でも、まして、それが初めてなのであれば尚の事、自分には果たさなければならない務めがあるのではないか。そう思っていたし、他の仲間からも半ばお節介気味にそう教えられていたのに、現実はエリーゼの想像とは全く違っていた。もしかして、変に気を遣わせてしまっているのか、或いは全く眼中にないのか、それとも別の思惑が彼の中にあるのか。様々な憶測を頭の中に浮かべたが、気は休まるどころか益々その意識を覚醒させてしまい、エリーゼはどうしたものかと小さく溜め息を吐いた。
肩口に掛けていた掛布を、エリーゼは少しずつ上にずらして、頭の上まですっぽりと被せる。あまり深く考えるのはやめにしよう。きっと彼だって今日はかなり疲れている筈だし、そもそもこうしてあれこれ詮索している事自体が間違っているのかもしれないのだから。そう無理矢理頭の中で自分なりの答えを導き出す。
ふと、隣で身動ぐ音が聞こえて、エリーゼは掛布から頭をそっと出し、そちらの方へと意識を向けた。てっきりもう寝てしまったかと思っていたのに、枕を並べた相方は、目を開けたままじっとこちらを見つめていた。視線と視線がかち合い、思わず声が漏れそうになる。
「･･････眠れないの？」
自分と同じように、まだ起きている事に気付いたのか、そうタクミが尋ねてくる。エリーゼは小さく「うん」と頷いて、真っ直ぐに自分を見つめる視線を受け止めていた。
「どうしてかは分からないけど」
咄嗟にそう付け加えると、「そっか」と静かに呟く声が、耳元に届いた。
「奇遇だね。僕もなんだ。どうしてかは分からないけど･･････」
薄暗がりの中、僅かな月明かりに照らされて、困ったように笑う顔が映る。不意に見せた感情の変化に、エリーゼの心拍数が少しだけ上がった。
「ねえ、一つだけお願いしても良いかな？」
「なあに？」
「こっちに来て貰える？ 少しだけで良いから･･････」
そう言って、タクミはおもむろにエリーゼの目の前に右手を差し出す。エリーゼは一瞬驚いたような表情を見せたが、僅かに俯いて思案した後、ゆっくりと身を起こしてタクミの傍へと近寄って行った。拒む理由など、何も無かった。そっと腕の中に招き入れられ、薄手の寝衣越しの体温に顔を埋める。暫くそのまま身を委ねていたが、躊躇いがちに髪の毛を指で梳かれる感覚にふと気が付いて、エリーゼはぱっと顔を上げると、それに合わせて指の動きが止まった。
「･･････ごめん、嫌だった？」
「ううん、そんな事ない。ちょっとびっくりしちゃっただけ」
拒絶されたのかと不安そうにするタクミに対して、エリーゼは頭を振って否定した。続けて貰っても一向に構わなかったのだが、再び指先がエリーゼの髪に絡む事は無かった。
柔らかく両の腕に抱かれ、穏やかな時間が流れていく。流れていく筈なのに。エリーゼはどうにも落ち着かなかった。自分に注がれる眼差しも、甘く抱き留める腕の力も、互いの間を緩やかに漂っている静寂も、どこかいつもと違う。得体の知れない違和感は、自覚すればするほどその大きさを増して、エリーゼの心をさざ波のように揺らめかせる。あたしったら、一体どうしちゃったんだろう。これじゃ何時まで経っても眠れないじゃない。そんな焦りが、エリーゼの表情に薄らと表れてきていた。
「どうしたの？」
エリーゼの変化に気付いて、タクミがそっと声を掛ける。心の内を読まれまいと、エリーゼは軽く首を横に振って「何でもない」と小声で呟いた。怪訝そうに見つめる視線から逃れようと、固く目を閉じて、無言の抵抗を試みる。
「あのさ･･････、もう一つお願いしても良い？」
「え･･････？」
耳元に低く囁かれる声が聞こえ、エリーゼは恐る恐る両の瞼を開いた。再び視線がかち合って、心音がより一層高鳴る。
「その･･････もう少し、君に触れていたいんだ。･･････良い？」
「･･････う、うん」
早打つ心音を意識しまいと、エリーゼは何度も頷いて答えた。それにしても、とエリーゼは考える。ここまで低姿勢な彼の姿を見るのも珍しい。さっき髪に触れた時は何も言わなかったから、今度はちゃんと言わないと駄目だと思ったのかな。そんな事、わざわざ聞かなくても良いのに。頭の中で、そう独りごちる。
不意に、エリーゼの頬にタクミの指先が添えられた。まるで壊れ物を扱うように、優しく、遠慮がちに。触れられた瞬間、指先の冷たさに、思わずエリーゼは息を飲んだ。
「･･････エリーゼ」
真っ直ぐに視線を送りながら、タクミは噛み締めるようにゆっくりと呟く。急に名前を呼ばれて、エリーゼは驚いてしまった。今まで一緒に過ごしてきた中で、呼び捨てで名前を呼ばれる事は、ただの一度も無かったから。
「タクミさ･･････」
タクミの声に応えようとエリーゼは口を開くが、最後まで声に出す事は叶わなかった。エリーゼの唇にタクミの唇が重なり、頭ごと掻き抱かれる。一瞬のうちに終わる、そう思っていたのに、タクミはエリーゼから顔を離そうとはしない。仄かな温かさを享受しながら、長いこと唇を塞がれている事に、エリーゼは困惑した。甘い拘束から逃れようと身動いで、苦しそうに息を詰まらせる。唇を強く押し付けられ、僅かに触れ合った舌の感触に、思わず身が小さく震えて
──
それは『もう少し』の範疇を大きく超えていた。
やがて、名残惜しそうに唇が離れていく。離れる瞬間、互いの吐息が交じる音がエリーゼの耳元を掠めていった。いつもと違う、長い口付け。いつもと違う、自分を熱っぽく見つめる視線。まるで未知の魔術にでも掛かってしまったかのように、全身が熱くて、息が苦しい。無意識の内に、エリーゼの手はタクミの寝衣の裾を掴んで、声無き訴えを投げ掛けていた。
「･･････ごめん、驚かせちゃって」
口付られる前とは違い、囁かれる声にも熱っぽさが含まれている。
「やっぱり本心を隠し通せるほど、僕は強い人間じゃないみたいだ」
「え？ どういう事･･････？」
「･･････僕は怖かったんだ。もし、気持ちが抑えきれずに事に及んでしまったら、君を傷付けてしまうんじゃないかって」
「
──
！」
エリーゼの口から、短い吐息が漏れ伝った。傷付けてしまう、その言葉で全てを悟った。早々と眠るように促したのも、眠れないと言ったのも、遠慮がちに触れて来たのも、何もかも。理由はたった一つしか無い。
「･･････そんな事言わないで。だって、あたしは」
そっと両の手でタクミの顔を包みながら、切なげにエリーゼは言う。あなたと同じ事を望んでいたんだから、と。最初から、意識する必要など無かった。妻夫としての責任も、務めも。時と感情が満ちれば、自然とその瞬間は訪れる。わざわざ考えるまでも無かった話なのだ。
「そっか･･････」
エリーゼの手の上に、タクミの手が重なる。思いの外強い力で手首を握られて、エリーゼは目を見開いた。顔からゆっくりと手が引き剥がされ、そのまま敷布の上に押し付けられるような格好になる。微かに擦れ合う敷布と寝衣の音に、エリーゼの胸が再び高鳴った。互いに視線を見上げ、見下ろしたまま、暫しの間沈黙する。身動きが取れない状態にされているにもかかわらず、エリーゼは嫌悪感を抱かなかった。
「･･････ねえ、エリーゼ」
低く、掠れた声がエリーゼの耳元をくすぐる。ただ名前を呼ばれるだけなのに、何故だか胸の奥が疼いて仕方ない。掴まれた手の力は変わらず、早く次に進みたいという無言の意思表示をしている。
「僕はこれから、君に酷い事をしてしまうかもしれない。それでも君は、僕の事を赦してくれる？」
僅かに口角を引き上げて、愉しげにそう言われてしまっては堪ったものではない。居たたまれなくなり、エリーゼは顔を横に背けると、消え入りそうな声で呟いた。
「そんなの、言わなくても分かってるんでしょう･･････？」
返事の代わりに、手首を掴んでいた力がふっと緩んだ。寝衣の結び目と合わせ目に手を掛けられて、少しずつ生身の肌が晒されていく。不思議と寒さは感じなかった。それよりも遥かに勝る期待がエリーゼの心を燻らせ、甘い熱の中に留まらせていた。
「･･････ありがとう、大好きだよ」
再びエリーゼの肌に触れる前、愛おしそうにタクミが囁いた。エリーゼは恥ずかしそうに目を伏せながら、そっと頷き、静かにその時が来るのを待ち受けている。その小さな身体が、溢れんばかりの感情で満たされていくのに、そう時間は掛からないだろう。
二人だけの、長い一日はあともう少し続く。
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ギリギリの攻防が好きなんです
(2015/10/18)