Desideratum

　腕の中に収めていた温もりが微かに身動いだのを感じて、アイクはそっと目を開けた。窓の向こうに見える空は薄らと淡く、それでも目覚めを知らせるには充分な景色では無い。木の葉を揺らす風の動きが、僅かに見て取れるだけだ。薄明かりに照らされる白い頬にそっと触れてみるも、先の荒々しい熱の余韻は既に失われ、指先に伝わるのは夜特有の、寂寞にも似た冷たさだった。

　起こさないように、と、肩口まで掛けられていた薄い絹地の掛布を取り払い、滑らかな肌を露にさせる。熱は消えてしまったが、胸元の上で幾重にも散らされた紅い痕は、確かな証としてはっきりと残されていた。その軌跡を辿るように指で触れ、そっと唇を寄せる。僅かな間でも、より長く、彼女の上に留まっていられるように。

　このまま一緒にいて頂けませんか ── 服の裾を細い指先で摘み、震える声で訴える光景を脳裏に呼び起こす。今日は受けた恵みを相手に返す事でその謝意を示す時なのだと、ずっと前から聞かされていた。故に、自分を留まらせる理由は直ぐに察しが付いた。だがそれは、自分の為だけのものでは無い事も知っていた。滅多に私情など口にしない彼女が望んだ小さな希求。甘えにも我が侭にも似た言葉に胸中は大きく突き動かされ、気が付けば、今日という日の持つ意味は、エリンシアだけでは無くアイクにとっても同じものになっていた。

　夢中だった。ただひたすらに求めて離さなかった。二人だけの、限られた時間の中で、少しでも彼女がその身に課せられた運命から解放され、本来在るべきだった年相応の姿に戻る事が出来るのなら。肌という肌の至る所に触れれば、その度に甘い声が耳元に響き、艶やかな表情が胸の奥底を疼かせた。必死に縋り付き、うわ言のように呼ぶ自分の名前を聞きながら、その存在は今、己が内にあるのだと言い聞かせるように、その華奢な身体を本能の赴くままずっと掻き抱き続けていた。

　視線の先に、長い深緑の髪を敷布に波立たせて、固く瞼を閉ざす姿が浮かんでいる。憂いと哀しみに沈む彼女を、弱いと思った。確かな信念を抱いて構える彼女を、強いと思った。それが、エリンシアという女性だった。だが、目の前に在るのはそのどちらでも無かった。欠片ほどのあどけなさを残して穏やかに微睡む表情と、小さく繰り返される規則的な呼吸の音。彼女が何ものにも束縛されずにいられるのは、今この瞬間だけだと気付いたのは、こうして共に過ごすようになってから後の事だった。

　眠るエリンシアの唇から、僅かな吐息と声が漏れる。ふと、自分の名前を呼ばれたような気がして、そっと耳元を寄せてみるも、期待していた答えは返って来ない。彼女が見ているのは夢の世界の自分であって、目の前にいる現実の自分では無い。満たされない想いは、そんな些細な事でさえ不安の対象に成り得るのか。その事実に焦りと苛立ちを覚え、同時に果てない欲の深さを知って密かに溜め息を吐く。

　視界が閉ざされているのなら、せめて肌だけでもと、白い首筋に顔を埋めようとする。だがそれよりも、エリンシアの意識が目覚める方が先だった。

「･･････アイク･･････？」

　腕の中で軽く身動ぎ、ゆっくりと瞼を開き、数度瞬かせる。目の前に映る人物が誰なのか、エリンシアは不安そうに小首を傾げるも、それがアイクの姿なのだと分かると、そっと柔らかい笑みを浮かべた。

「すまん、起こしてしまったな」
「いえ、そんな事は･･････」

　エリンシアの意識は未だ夢と現の狭間にいるのか、その表情は移ろい、何処か覚束無い視線でアイクの姿を捉えていた。普段の彼女からは想像もつかない無防備な様相に、胸の鼓動が無意識の内に早打つ。

「大丈夫か？」
「？　何の事でしょうか･･････？」
「昨日は無理をさせたようだからな」
「え･･････」

　アイクの言葉に、エリンシアの目が急に見開かれた。自分の姿とアイクの姿を交互に見遣り、状況を把握すると同時に彼女の意識は完全に覚醒して、思わず顔を横に背けて視線を逸らしてしまう。だがそんな彼女の所作も想定の内だと、アイクはエリンシアの顎を指で摘み、強引に自分の方へと向けさせる。

「エリンシア」
「･･････っ」

　全てを見通してしまうような、心ごと飲み込んでしまうような鋭い視線は、否応無しに狂熱の記憶を呼び醒ます。増してやそれが自分の一言が発端となったのなら、尚更鮮明に。逃げるなと言わんばかりに強く注がれる視線を感じて、エリンシアの頬は見る見るうちに朱に染まり、息を詰まらせた。

　肩口を押さえていたアイクの手が、身体の線を辿るようにゆっくりと下降して行く。思い出すだけでも恥ずかしいのに、新たに与えられる熱は身体中を駆け巡り、エリンシアは困惑したように眉を顰めた。

「あ、だめ･･････」

　今にも消え入りそうな声で、エリンシアの口からはささやかな抵抗の言葉が紡がれた。しかし、そこに真の意味での拒絶は含まれてはいない。その事を、アイクは既に知っていた。僅かに残された冷静さと甘い誘惑の間で揺れ動きながら、何度同じ時を重ねても消える事の無い清純さにいじらしいという思いを抱き、同時に壊してしまいたいという衝動に駆られる。

　どれほど願おうと、望もうと、最も手にしたいと思うものは、自らの意志ではどうする事も出来ない。それでも渇望は満たされる事無く、更なる欲を求めてひたすらに彷徨うばかりだ。 ── ならばせめて。エリンシアの身体に触れながら、アイクは思う。今この時だけは、その声も身体も意識も、全て自分の支配の下に収めてしまいたいと。彼女の視界の中に、己の姿ただ一人を灼き付けて、その存在が強く残されるようにと。

「･･････！　待って、アイク ── 」

　思わず後退ろうとする身体と、切なく訴える声が続きを阻もうとするも、押さえ付ける腕の力がそうはさせなかった。蒼い視線の下に曝された首筋に舌を這わせると、その動きに呼応するようにエリンシアの身体が小さく跳ねる。自らの意思に反して引き出される熱を酷く恨めしいと感じながら、込み上げてくる感情に抗う事も出来ず ── 例えそれがアイクの行為を助長させる原因になると分かっていても、開き掛けた唇から熱っぽい吐息が零れるのを抑える事は出来なかった。

「時間はまだ充分にある。･･････そうだろう？」

　失い掛けた理性の中で聞くアイクの声は壮絶だった。ただでさえ胸が押し潰されそうで、苦しくて堪らないのに、更なる追い討ちを掛けて来るなんて。強烈な倒錯感と眩暈を覚えて、エリンシアの表情は困惑の色を一層強め、それでも拒む理由を見付ける事など出来ない。彼女に出来るのはただ一つ、アイクの求めに身を任せ、甘い囁きに縋る事のみだった。

「あまり苛めないで下さいね･･････」

　精一杯の抗心をそっと呟いて、エリンシアはアイクの身体に抱き付いた。肌を覆う温もりに心地良さを感じながら、重ね合わされる唇を静かに受け入れる。言葉にこそ出さないが、互いに抱える想いは同じだった。感情が満たされたこの瞬間こそが、相手に示す「その時」であるのだと。

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たまには甘い話も書きたくなるんです
(2011/03/05)