Malfermo
一瞬の内に起きた惨状を、すぐに受け入れる事など到底出来なかった。だが、確かに自分は見たのだ。
父と母が亡き者にされたという事実を。他ならぬ、デイン王アシュナード自らの手によって。
目の前に在るのは、倒れ伏したまま微動だにしない両親と、それを心底愉しそうに眺めるデイン王の姿。受け入れ難い現実を目の当たりにすると、人は何も出来ず、途方に暮れるだけだという事を、エリンシアはこの時初めて知った。
恨むなら両親と、己が国の甘さと無力さを恨め
──
絶望に打ちひしがれ、戦慄する自分に対してデイン王が放った言葉はあまりにも残酷だった。事態は起こるべくして起こった、そう目の前の男は言い放ったのだ。
自分と同じ「人」とは思えない無慈悲な物言い。だが圧倒的な力の差を見せ付けられて、それを咎める事など出来る筈も無かった。
何故このような事を。やっとの思いで口にした言葉は、背後から駆け付けた臣下の声によって掻き消された。その後は何かを考えるという余裕も無く、ただ言われるまま必死に臣下の後を追い掛け、用意された馬車へと乗り込むだけだった。
同盟国ガリアへ逃れクリミアを再興する
──
祖国にとって唯一の希望を震える胸に抱いて、その希望を打ち砕かんと目論む者達の嘲笑を訊きながら。
霞がかった視界に、見覚えのある景色が映り込んで来る。簡素な木製の枠組みと厚い布地で出来た天井に、エリンシアは数度目を瞬かせ、それからすぐに自分が天幕の中にいる事を思い出した。
やおら気怠い身を起こし、額に片手を当ててそっと溜息を一つ吐く。デインが王都メリオルに侵攻した日の事は決して忘れ得ぬものとはいえ、改めて思い出すとやはり息が詰まりそうになる。大切な人と愛する祖国を同時に失った哀しみと恐怖は今も尚エリンシアの胸の内に留まり、こうして不意に夢の中に現れて来ては、例え祖国が再興されても等閑にしてはならないと、無音の警鐘を鳴らしているようだった。
天幕の隙間を通して、淡い光が薄らと差し込んでくる。決戦の舞台となる導きの塔、そこから放たれる目映い光こそ、この地を創造した主の力の証だと、もう一人の女神の片割れが語っていた。最初に見た時よりも光の明るさが増していると感じたのは、ただ周囲が暗いからという理由だけでは無く、世界を完全な無に還す為の力を女神が取り戻しつつある事の表れでもあった。そしてその裁きを止める為に、エリンシアは明日にも仲間と共に塔を上って行く。
何故今になってあの夢を見たのか。考えるも、それが一度だけでは無かった事をエリンシアはすぐに思い出した。王都奪還の戦いを前に、内乱の首謀者と対峙する前に、正念場を迎える時に限って夢に現れたのは、あの忌まわしいクリミア陥落の出来事だった。まるで、揺らぐ自分の心を見透かしたかのように。
何を躊躇う必要があろうか。地上に生ける者達の存亡が掛かっている今、この時に、迷いなど決して抱いてはならないのだ。思い直し、再び身を横たえて固く目を閉ざすも、一度擡げた不安はそう簡単に消えてはくれなかった。こうなってしまえば、再び眠りに就くまでには時間が掛かるだろう。観念して、エリンシアは傍らに置いてあった上着を羽織ると、天幕の切れ目からそっと外へと出て行く。外の空気に触れていた方が多少は気も紛れ、漠然とした感情をただ抱えているよりはずっと良かった。
眠る前にはあちらこちらに点在していた天幕の薄明かりも、流石に夜の更けた今となっては一つも見当たらない。その中で、塔の煌々とした荘厳な様相だけは変わらず、はっきりと暗い空の上に浮かんでいる。相応の強い心を持たない限り、あの光を見ただけで人は畏怖し、聖域に立ち入ろうなどという思いも容易に消え失せてしまうのだろう。この世のものとは思えない一種異様な光景に、エリンシアの背中は小さく震えた。女神が望むのは、世界の安定と平穏。しかし、それを破ろうとする自分たち人は、捉え方によっては異教徒という矛盾した存在でしか無いのだと。
抑えていた不安がゆっくりと浮かび上がるのを感じて、胸の前で交差させていた両腕を無意識の内にエリンシアは固く掴んでいた。戦いなど、避けられるものなら避けたかった。敵味方各々の名分はあるとは言え、戦えば必ず人は傷付き、時にその命を散らして行く。倒れる者達と遺される者達の心情を思えば、互いに歩み寄る方法も
──
尤も、その対象が女神であっては意味を成さないのだが
──
あっただろうに。そう考えてしまうのは、元々の性分なのか、正の気に満たされた今の世界に影響されたからなのか、エリンシアには分からなかった。
「･･････休まなくて大丈夫なのか」
不意に後ろから声が聞こえて、エリンシアは慌てて考えていた事を脳裏の隅へと追い遣る。反射的に声のした方を振り向くと、半ば困ったような笑みを浮かべてエリンシアは答えた。
「眠れなかったものですから。アイク様はどうしてこちらに？」
思った疑問を、エリンシアは素直に投げ掛ける。アイクの天幕はエリンシアの天幕から離れた場所にある筈だった。余程の火急の用事が無ければ、今の時間に声を掛ける事など考え難い。
「いや、ちょっとこの辺をうろついていてな。俺も寝付けなかったもんだから」
「まあ、ではアイク様も気分転換に？」
「まあそういう事だ。たまたまあんたの姿が見えたから、声を掛けてみたんだ」
らしくない、と思われるのが気になったのか、アイクはばつの悪そうに頭を掻く。その不器用な姿に安堵して、エリンシアはそっと笑みを浮かべた。
「何だ、可笑しい事でもあるのか」
「いいえ、ほっとしたのです。私も貴方も同じだと言う事に」
エリンシアの言葉に、アイクは「そうか」と素っ気無く返した。そこに不快の念は含まれていない事は、これまでの経験からすぐに読み取れる。
「折角の機会なのです。宜しかったら少しお話でもしませんか」
「別に構わないが･･････、あんたは大丈夫なのか？」
「ええ。一人よりも、誰かといる方がずっと良いですから」
言い終わってから、エリンシアははたと気付く。提案を申し出て受け入れて貰ったのは良いものの、問題はその場所だ。仲間達の眠りを妨げないようにするには、天幕の中で話をするのが最適なのだろうが、両者の立場を考えれば、まして互いに想い合っている関係でもないのであれば、私的な場所へアイクを招き入れる事は流石に出来ない。だが、このまま立ち話と言うわけにも行かず、困惑したようにエリンシアはどうしたものかと眉を寄せた。
「エリンシア？」
急に口を噤んでしまったエリンシアを、アイクは怪訝そうな表情で見遣る。エリンシアもちらりと顔を見上げ、アイクの方へと視線は返すものの、再び視線を下に落として押し黙ったままの状態になる。野育ちのアイクに対して、理解して貰うにはどう説明したら良いものか分からず、考えを巡らせても相応しい言葉は出て来なかった。
「あ、アイク様。申し訳ありません、私･･････」
「･･････行くぞ」
「え？」
先に口を開いたのはエリンシアだったが、それよりもアイクが行動に移す方が早かった。些か強引に左の手首を掴まれ、身体ごとアイクの方へと引き寄せられる。不意に縮まった互いの距離に、エリンシアの心臓が小さく跳ねた。
「向こうに暖を取れる場所があるんだ。あそこなら近いだろう？」
アイクの指差す方向に、小さな炎の揺らめきが見える。野営の標として灯された篝火だった。だが、言われても、エリンシアは僅かに頷くだけでその場から動こうとしない。黙って、アイクの掴んだ己の手首をじっと見つめている。流石に様子がおかしいと気付いたのか、エリンシアの方へと向き直り、アイクが訊ねた。
「どうした？」
「･･････！ いえ、何でも無いのです。どうかお気になさらず」
慌てて首を横に振るエリンシアを、アイクは腑に落ちないといった表情で見ている。今の状況に、エリンシアの淡い心が揺れ動いている事など、その対象者である本人を目の前にして言える筈は無い。
だが、それをアイクは違う意味に解釈したようだった。掴んでいた手を離し、代わりに着ていた上着の留め具を外して、自分の中へ引き入れるようにしながらエリンシアの華奢な肩口にそっと掛けてやる。
「あ、あの。アイク様･･････？」
「これなら少しは寒くないだろう？」
アイクの言葉に、エリンシアは目を瞬かせた。確かに、芽吹きの季節はすぐそこまで来ているとはいえ、雪の残る今の時期はまだ冷気が辺りを覆い尽くしている。無論エリンシアも外が寒い事は想定の上で、それなりに厚手のものを着込んではいたのだが、それでもじっと佇む姿は、アイクにしてみれば寒そうに感じたのだろう。彼らしい心遣いと鈍感さに、エリンシアは思わずふっと小さく笑みを零した。
「アイク様、有難うございます」
俯き加減で不安そうにしていた表情がぱっと華やいだのを見て、漸くアイクも安堵し、僅かに口元を緩めた。
最後に薪を入れてからかなり時間が経っていた所為か、燎の炎は小さくなり始めていた。いつもなら火の番をする者が炎を絶やさずに場を守ってくれているのだが、戦える者の少ない現状ではそれすらままならない。手近に置いてあった薪を幾つか篝の中に足し入れ、アイクはエリンシアをそっと座らせると自分もその隣に腰を下ろす。別行動の多かった二人にとって、こうして互いに時間を共有し合うのは随分久し振りの事だった。
「･･････夢を見たのです」
時折不安定に揺らめく炎をおぼろげに見ながら、エリンシアが先に口を開いた。
「夢？」
「はい。クリミアが陥落した時の･･････」
「･･････そうか」
「不思議なのです。どういう訳か、何か大きな事が起こる前に必ず出て来て」
エリンシアの言葉に、アイクの表情が微かに変化する。何か彼の気を悪くするような発言でもしてしまったか。慌ててエリンシアはアイクの方を振り向いて無言の問いを投げ掛けるも、そうじゃない、と首を横に振って否定される。
「俺も見たんだ。親父が死んだ、あの日の夢を」
「･･････アイク様も、ですか？」
「ああ。俺もあんたも似たようなもんだな」
アイクの視線は、彼方の暗い空へと吸い込まれて行く。唯一の師であり、生涯の目標となった、亡き父への思いを馳せての事なのだろう。
「きっと今度の戦いは、俺達が思っている以上に過酷なものになるのかもしれないな」
「はい･･････」
言いながら、エリンシアは逸る心を鎮めるように、両の手で胸元を強く押さえ付けていた。討つべき相手は神。だが塔には、アイクの仇である漆黒の騎士、更にはベグニオン皇帝サナキや、現デイン王ペレアスを陥れた元老院派の人間も待ち受けている筈である。そして恐らくは、この戦いを引き起こし、女神を覚醒させる要員となった黒幕の存在も。
「･･････怖いか？」
「え･･････？」
エリンシアの表情が曇ったのを感じたのか、アイクが訊ねてくる。
「神に剣を向ける事が怖いか？」
「いえ･･････！ そんな、怖いだなんて
──
」
余計な心配を掛けさせまいと口を開くも、その声が思った以上に弱い事に気付いて、エリンシアは口篭る。表面上は取り繕うとしても、やはりその心の内は隠せないのか。自らの意志の弱さに、エリンシアはそっと溜息を吐いた。
「･･････申し訳ありません」
「いや、気にしないで良い。寧ろ謝らなければならないのは、俺の方だからな」
「アイク様が？ 何故ですか？」
「俺はあんたが戦いを嫌っているのを分かった上で、塔に連れて行こうとしているんだ。不安になるのも無理は無いだろう」
「ですが、将である貴方の命なのです。それに、私には王として世界の行く末を見届ける義務がありますから･･････」
弱々しく呟き、項垂れる自分に、アイクは困惑していないだろうか。思うも、彼の表情は変わらず、じっとこちらに視線を合わせていた。
「･･････確かに、戦は好きになれません」
自分の胸の内を確かめるように、ゆっくりと声に出す。戦など無ければ良い、それは紛れもない本心だ。戦によって自分は国を失い、アイクは大切な人を失った。否、それだけでは無い。種族間の諍いは止む事を知らず、多くの血が流された現実を嫌と言う程見せ付けられたのも、戦だった。
これから先も人と人が傷付け合う世界が続くのであれば、それこそ女神の望む通り、人の存在など消してしまえば良い。そんな錯覚すら抱いてしまいそうになる。
「ですが、アイク様」
だが、それでも。そこまで考えて、エリンシアの意識は、もう一つの本心の方へと向けられようとしていた。
「戦が無ければ、私は貴方と出会う事は無かったのです」
そう、クリミアが陥落した時も、内乱の最中に王として重大な決断を下した時も、自ら剣を捨てて祖国を守ろうとした時も、即ち戦の重要な局面で、いつも傍にいてくれたのはアイクだった。互いの身分を考えれば、恐らくは一生出会う事は無かったであろう二人が、こうして対等の位置に並んで同じ場に立っている。それは、やはり戦が起きなければ絶対に有り得ない事だった。
「不安など無い、とは言い切れません。されど、貴方のお傍にいられる事を思えば、私の憂いなど小さなものです」
エリンシアは思う。戦がもたらしたのは、決して悲しい事だけでは無いのだと。全てを否定する、自分はそこまで出来た人間では無いのだと。
「･･････エリンシア」
話を聞いていたアイクの視線が、急に厳しさを帯びた。暗がりの中でもはっきりと分かった表情の変化に、エリンシアは思わず身構える。今度こそ、何か彼の気に障る事を言ってしまったのか。焦燥して、あれこれと思案するも、続きの言葉は出ては来なかった。
「あんたがそう思っているのは、『クリミア女王』の立場としてか？」
「え･･････？ それは一体どういう意味ですか？」
訊ねても、アイクの答えは返って来ない。代わりに両の肩口をそっと掴まれて、エリンシアの身体がぴくりと小さく跳ねた。見つめる視線の厳しさは変わらず、腑に落ちないと言った風な雰囲気ではあるが、憤りの念は含まれてはいない。今まで見た事の無かったアイクの表情に、焦燥が一層募る。
「確かに俺は、王としての務めを果たして欲しいと思って、今度の戦いにエリンシアを選んだ」
戸惑いつつも見上げる視線を受け止めながら、アイクは言う。
「でもそれは、『将』としての立場から望んだに過ぎない。俺が真に望んでいるのは、あんたを俺自身の意志で護る事なんだ」
アイクの言葉に、エリンシアは目を見開いた。自分が祖国クリミアの王である事を考えれば、傭兵と依頼主という関係を結んでいた過去を思えば、アイクが自分の傍に在りたいと言うのもごく自然な事だ。しかし、それだけの理由で片付けてしまえるような願望を彼が抱いている訳では無い。そうエリンシアは薄々感じ始めていた。初めて見るアイクの複雑な表情、それはエリンシアが彼と共に過ごして来たどの記憶の中にも当て嵌まらなかった。
「エリンシア、もう一度聞く。戦いを嫌うあんたが俺の命を受けてくれたのは、
あんたが『クリミア女王』だからか？」
「･･････！ 違います、そのような事など
──
」
決して思ってはいない。言おうとして、不意にエリンシアは考えていた言葉を喉の奥へと引っ込めた。言ってしまえば、変わってしまう。声に出すよりも先に、そんな漠然とした不安が脳裏を過ぎった。
「私･･････私は･･････」
代わりの言葉を思い浮かべようにも、困惑した思考の中では探し出せる筈も無く。堪えかねたように、エリンシアはアイクから視線を外して俯き、胸の前で組んでいた両手にそっと力を込める。
「エリンシア」
肩口を掴んでいたアイクの右手が、エリンシアの両手の上に重なった。触れた手の温かさに驚いて、思わず逸らしていた視線を元に戻す。
「聞かせてくれ。俺は、あんたの気持ちが知りたい」
囁かれる声が、微かに震えている。そう感じたのは気のせいでは無かった。
「アイク様、まさか貴方は」
思惑を確かめる為に呟いた言葉が、小さな頷きで返される。エリンシアの予感は確信へと変わった。これが、彼の精一杯なのだ。そう意識した途端、急に息苦しさを覚えた。声を出そうにも、胸の奥で痞える感覚が先に来てしまって、思うように身体が動かない。
気付いてしまった。自分が抱いている感情が、どうしようも無い程に膨れ上がってしまったと言う事に。自分が恐れていたのは女神でも戦でもない。当の本人を前にして、その言葉一つで、不安定に揺らぐ己が心そのものなのだと。その事実に、エリンシアの背筋が震えた。
何と煩わしく、拙く、不器用な人なのだろう。考えている事は、恐らく自分もアイクも同じだ。そして、建前とは裏腹に、淡い期待を抱いているという事も。
そっと重ねられた手を、両の手で優しく包み込むようにして胸元に引き寄せ、エリンシアはアイクの真っ直ぐな深蒼の双眼を見つめた。視線が合った瞬間、アイクの表情が僅かに揺らいで、眉間に皺が寄る。まだちゃんと聞いていない、そんな風に訴えているように見えた。アイクの態度は当然の事だった。だから、エリンシアは伝えなければならなかった。
「私が貴方の傍に在りたいと望むのは、私が『エリンシア』だからです」
その言葉が互いの心に拍車を掛けてしまう事など、分かり切っている。
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アイ→←エリからアイ×エリに変化するのを如何に二人らしく見せるかは、永遠の課題です
(2012/02/09)