二人分の孤独
円卓の上にそっと白磁の器を置くと、無造作な扱いで取り上げられた。こちらが勧めるより先に、最初の一口を飲んでしまうとすぐに器を置かれた場所へ戻す。小皿と器の底が重なる乾いた音が、互いの間で小さく響いた。
出来るだけ彼の口に合いそうなものを、と選んで淹れたつもりだったが、味の良し悪しなど当の本人は関係ないらしい。いつもそうしているように表情を変えず、黙ったまま器の中で揺らめく水面を眺めていた。客人として扱うには難しい相手なのだろうが、無愛想で頓着のない事がアイクの常であり、エリンシアもその性質を心得ていた故に、さして戸惑う事も無く、彼と同じように、もう一つの茶器に口を付けた。
急な来訪もそうではあったが、その相手がアイクであった事に、エリンシアは珍しい事もあるものだと内心驚いた。
午後の定例会議を終えて、後は溜まっていた書類に目を通すつもりでいたが、私室へ戻る途中で臣下から声を掛けられた。急ぎ足で接見室へと向かうと、先に部屋へ通されていたのであろうアイクが待ち受けていた。軽く会釈して、エリンシアは柔らかい笑みを浮かべる。
「アイク様、ご無沙汰しておりました」
「ああ。すまんな、急に来てしまって」
アイクの言葉に、エリンシアは「構いません」と小さく首を横に振った。導きの塔で女神と対峙して以来、久方振りに彼と対面出来た事が何より嬉しかった。
「クリミアを出ようと思っている」
再会の喜びも束の間、そう告げられて一瞬思考が止まる。しかし、思ったよりも戸惑いは無かった。剣と共に生き、ただ真っ直ぐに己の道を歩もうとするアイクにとって、団の長という立場も、クリミアという小国も、テリウスという大陸も、既に留まるべき場所ではなくなったのだろう。今までの彼を見ていれば、それも有り得る事態なのだと、エリンシアは何となく予感していた。
彼は別れを告げる為に、自分との接見を望んだのだ。理解するまでに、そう時間は掛からなかった。面には出さなかったが、少しだけ寂寥感のような思いが心に浮かんだ。
「･･････あんたは引き止めないんだな」
エリンシアが茶器を置いたのを見てから、アイクが静かに呟いた。思いも寄らなかった問い掛けに、卓上にあったエリンシアの視線がアイクの方へと向く。
「引き止めるだなんて･･････何故そんな事を？」
「いや、団の奴らに話したら、物凄い勢いで反対されたからな。あんたも同じだと思ったんだが」
「私は皆様とは立場が違いますから。貴方の決めた事に口を挟むなど、私のような者がどうして出来ましょう」
団員を説得するのに、両の手で数えるには足りないほどの時間を費やしたと、エリンシアはアイクから聞かされた。それほどまでの固い決意なのに、どうして「行くな」などと主張が出来るのだろうか。まだ彼がクリミアの将軍だった時、無理に慰留を求めてしまった過去を持つ身としては、これ以上彼の意思を妨げるような真似はしたくなかった。
「どうか、アイク様ご自身の望む道をお進み下さい。それが私の願いです」
浮かんだ思いを、そのままエリンシアは言葉にした。嘗て爵位を返上された時と同じものではあったが、その意味合いは大きく異なっていた。微かな未練を抱いていたあの頃とは違い、今はただ純粋にアイクの旅立ちを見送れる。そんな気がした。
「そうか、それを聞いて安心した。あんたに背中を押して貰わないと、俺も心置きなくクリミアを去る事が出来ないからな」
「え･･････？」
言われて、再び茶器の持ち手へと伸ばされていたエリンシアの指先がぴたりと止まる。視線をアイクに注ぎながら、悟られないように顔色を窺うが、そこには変わらぬ面持ちがあるだけだ。何も意図せず伝えたのだろうが、何処か含みのあるアイクの言い方にエリンシアは疑念を抱いた。問い質した方が良いのか、それとも何も聞かない方が良いのか。脳裏で二つの選択を天秤に掛ける。
「アイク様」
もう一度茶器に口を付けてから、エリンシアは言う。そのまま何もしない事も出来ただろうが、それよりも聞きたいという思いの方が強かった。ましてこれが、あまり意識したくはないが、彼と話が出来る最後の機会だとしたら尚更、エリンシアはアイクの口から真意を伝えて欲しかった。
「何だ」
「まさか、迷っていらした訳ではないのですよね？ その･･････クリミアを発つ事を」
「ん？ あ、ああ、それは当然だが･･････どうしてそんな事を聞く？」
「背中を押して貰わないと、だなんて、貴方らしくないと思いましたので･･････」
エリンシアが釈然としないのも無理はなかった。もし自分に引き止められたら、考えが変わってしまうかもしれない。アイクの言は、そんな意味にも読み取れた。常に己の信じるままに進んできた彼が、肉親や団の仲間ならともかく、ただの一個人でしかない自分の言葉で迷いを抱くなど、想像出来なかった。
エリンシアは静かにアイクの返答を待つ。普段のアイクなら「気のせいだろう」と軽く受け流してしまう筈なのに、思いとは裏腹に、黙ってこちらを見つめるだけだった。視線の先に映る表情に、微かに翳りのようなものが含まれている気がする。悟られたくないのか、誤魔化す為なのか、アイクはおもむろに茶器の持ち手を掴むと、残っていた紅茶を一気に飲み干して、小さく溜め息を吐いた。
「･･････なあ、エリンシア」
「何でしょうか？」
不意に声を掛けられて、エリンシアの胸の鼓動が揺れ動く。
話の筋を逸らされてしまうのかと思ったが、そうではなかった。
「もしも･･････もしもだぞ。あんたが女王じゃなかったら、あんたは俺に付いて来てくれただろうか」
「･･････！ アイク様、それはどういう意味で･･････」
思いも寄らなかった言葉に、エリンシアは息を詰まらせる。何故急にそんな事を言い出すのか、アイクの胸の内がエリンシアには理解出来なかった。
「仮の話だ。あんたの思った通りに解釈してくれれば良い。･･････聞かせてくれないか」
エリンシアは呆然としたまま、アイクを見遣った。答えなければ、思うも、言葉が出て来ない。本当は一緒に来て貰いたかった、とでも言いたそうなアイクの言い方に、胸が詰まるような思いがした。期待してはいけない。けれども彼は好きなように解釈して良いと言っていたではないか。考えれば考えるほど、動揺は鎮まるどころか益々湧き上がるばかりで、エリンシアは密かに眉を寄せた。
「アイク様･･････」
何度目かの呼吸の後、エリンシアはゆっくりと口を開いた。こうして良いのかどうか、一瞬悩んだが、言わなければならない。
「逆にお聞きしても宜しいでしょうか？」
「ああ、何だ？」
「もし貴方が貴族の出自であれば、貴方は私と共に国を束ねて下さいましたか？」
それは賭けにも似たような言い方だった。アイクは「仮に」とは言うが、肯定しても否定してもその後の予測が付かない以上、はっきり伝える事をエリンシアは躊躇った。
「･･････それが、あんたの答えだと？」
「お好きなように考えて下さって構いません」
果たして、曖昧な自分の返答に、アイクは何を思うだろうか。不安が脳裏を過ぎる。だが、判断の余地を残したのは他の誰でもないアイク自身であり、アイクが思うように自分もまた同じく、その選択を彼に任せる方が良いと思った。だから、これが最良の答えなのだ。そうエリンシアは自分に言い聞かせた。
「そうか、分かった･･････」
低い声が、エリンシアの耳元を掠めていく。言い終わるや否や、アイクはゆっくりと立ち上がると、対座していたエリンシアの傍まで近付いてきた。不意に高い位置から見下ろされる格好になって、エリンシアの表情に緊張が走る。何か彼の心証を悪くするような事を言ってしまったのだろうか。焦燥にも似た思いが、徐々に浮かび上がってくる。
「アイク様･･････？」
不可解なアイクの行動に、エリンシアは小首を傾げた。それと同時に、両の肩を強く掴まれる。無理矢理引き寄せられそうになって、思わずエリンシアは咄嗟に身を退いた。その反動で重心が傾き、長椅子の座面に横倒しになる。訳も分からず、仰向けにさせられた視線の先に、肩を押さえ付けたまま、睨み付けるようにして自分を見つめるアイクの姿が映った。
アイクの表情には、苛立ちにも憤りにも似た感情が浮かんでいる。明らかに今までとは違う態度に、エリンシアは戦慄した。生まれて初めて、彼に対して恐怖心を抱いた。
怯えるエリンシアの頬に、そっとアイクは指を辿らせる。唇に触れた瞬間、その華奢な身体が小さく震えた。止めさせなければ。エリンシアは思うも、咎めの言葉は出ては来ない。
出来る筈もなかった。好きなように考えて良いと言った結果、アイクは行動を起こした。望んだのは他ならぬ自分自身。ただそれだけの事だというのに。
胸の奥が痛くて、苦しくて堪らなかった。何故アイクが「背中を押して欲しい」と言ったのか、漸くエリンシアはその真意に気付いた。アイク様、貴方は恐れていたのでしょう。この瞬間が訪れる事を。無言の問いを、エリンシアはアイクに向かって投げ掛ける。もっと、ずっと前に互いの感情を知っていれば、ここまでの事態を招かずに済んだのか。それとも、深追いせずに直隠ししたままでいれば、諦めも付いたのか。何を以てして最善とすれば良いのか、エリンシアには分からなかった。
エリンシア、名前を呼ぶアイクの声が、小さく響く。触れられた温もりに、エリンシアはじっと耐える事しか出来ない。無意識の内に袖口を掴んだ指先の強さが、代わりに感情の大きさをアイクに伝えていた。
窓辺に穏やかな夜風が吹き抜けて、深緑の髪を揺らしていく。生憎の曇天で月明かりは殆ど見えないが、それでもエリンシアは外の景色を眺めていたかった。
あれから、幾つもの月日が流れた。救世の英雄が突如として姿を消した事に、クリミアは勿論のこと、ガリアやベグニオンといった大陸中の全ての国が騒然となった。誰もがその行方を知りたがったが、ついにそれは叶わなかった。
暫くの間、人々の話題はアイクの消息で持ち切りだった。しかし時の流れとは残酷なもので、今となってはごくたまに名前を耳にするかしないかのどちらかだ。決して忘れた訳では無いのだろう。だが、口にする機会が無くなったのもまた事実だった。平穏な今の世に、戦乱の中にしかいなかった彼の存在が、人々の記憶から薄れていくのは必然だった。
エリンシアの口から、郷愁の念を込めた小さな溜め息が漏れる。それは、嘗ての戦友であり、最愛の人に対して向けられるものだった。
『エリンシア、もしかしたら俺は、あんたにとんでもないものを残していくかもしれんぞ』
エリンシアの脳裏に、別離の前のアイクの言葉が思い起こされる。彼の言う所の「とんでもないもの」が何であるか、エリンシアには分かっていた。可能性としてあったからこそ、アイクはそう言ったのだろうし、エリンシアも心の内に留めておいた。責める気など全く無い。互いにその覚悟は出来ていた。
回り始めた運命の歯車は、誰にも止められない。新たな衝撃が大陸中に知れ渡るのは、時間の問題なのだろう。アイクから託された、あまりにも大きく、あまりにも小さい証を携えて、生きていく。その先にある未来が明るいか暗いかなど、エリンシアには知る由もない。
アイク様。エリンシアの唇が、微かに動いた。辛い、苦しい、嬉しい、寂しい。一言では言い表せないほどの思いが胸の奥底から浮かんで、エリンシアの身を焦がした。受け止めてくれる存在は、もう何処にもいない。そう言い聞かせても、溢れる感情を抑える事は出来なかった。
胸元に置かれた手の上に、熱い感情の雫が一滴二滴と落ちていく。暗い雲に覆い尽くされた空は、自分の心境を表しているかのようだった。立ち尽くしたまま、溢れる涙を細い指先で拭う。一度箍の外れた思いは留まる所を知らず、幾度となくエリンシアの手を濡らしていった。
残された世界に佇むのは女王エリンシア、その人ただ独りだけだった。
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どうせ書くならいっそ清々しく
(2013/03/28)