夜は永く、朝は遥か彼方
※大人向けの表現を多分に含みますので、ご注意下さい
暖炉の薪の爆ぜる音で、目が覚める。夢と現の境目にあった為か、意識はおぼろ気だった。
だが、それもすぐに掻き消される。目の前に浮かび上がった寝顔に驚き、思わず声を上げそうになるものの、寸での所で堪えた。深い寝息は変わらず、何処となく近寄りがたそうな雰囲気を漂わせている表情は穏やかに見える。数刻前に荒々しく激情を露わにしていたその勢いも、今はすっかり鳴りを潜めていた。
起こさないように気を付けながら、エリンシアはゆっくりと身体を反転させて窓の外を見遣る。どこまでも続くような深い闇が辺りを覆い尽くしていた。部屋の暖炉に残された緩やかな火と、外の景色とを見比べて、眠りに就いてからそれ程時は経っていなかったのだと理解する。夢の世界へ誘われる前、この身体を甘く抱き留めていた体勢も変わらない。違うのは、肩に回されていた腕が役目を放棄して、エリンシアの上にただ置かれている状態になっている事だった。
そっと寝台から抜け出すと、すぐに冬特有の刺すような寒さが身体中に纏わりついてきた。触れていた肌の温もりと、暖炉の残り火が多少和らげてくれてはいるものの、一糸纏わぬ身にはやはり些か堪える。雪のように白い肌が、少しだけ震えた。着替える手間は惜しい。だからと言ってアイクを寒さから守ってくれている掛布を取るわけにもいかない。どうしたものかとエリンシアは暫し思案するも、はたと目線を下に向ける。床の上には、それまで互いに身に着けていたものが乱雑に置かれていた。無意識の内にエリンシアはその中から煤けた色のマントを拾い上げ、自らの身に纏わせる。自分の戦装束とは違って触り心地はあまり良くないが、それでもエリンシアは構わなかった。もう少し、先にアイクと共有し合った時間に浸りたい思いがあった。
吸い寄せられるようにエリンシアは窓の傍へと近付いていく。外は余程寒いのか、窓枠に嵌め込まれたガラスはエリンシアの吐息ですぐに白く霞んだ。今はまだ静かだが、いつこの均衡が破られてもおかしくはない。例え宵の中であっても僅かな物音で目を覚まし、脳裏に不安の文字を過らせたのは一度や二度ではなかった。
つぎはぎだらけのマントには、小さな綻びや切れ目だけでなく、炎の魔法にでも当てられたような焼け焦げた跡が残っている。直そうとしないのは、それに費やせる時間が無いという事だろう。事実、戦況は激しさを増すばかりで、自らの事に構う余裕など残ってはいないのが現状だ。
対立するデインの軍には、かつての仲間がいる。出来る事なら対峙したくはないのが本音だが、例え不利な立場になろうとも、向こうは決して折れようとはしない。話す機会を望んでも応じてはくれず、全てを捨てる覚悟で刃を向けて来るともなれば、こちらも止む無く迎え撃つしかない。今はゴルドアの王子が説得をすべく、危険を顧みずに敵陣に乗り込んでくれてはいるが、それもどこまで通用するかは分からない。
いつ終わるとも分からない戦いに、誰もが畏怖を抱いていた。払った犠牲は数知れない。争いの早期終結を、と願って送り出した祖国の兵達も、その殆どが戦火の中へ葬られてしまった。生き残った兵を退かせて砦へ戻った後、他に策は無いものかと何度も話し合ったが、納得のいく結論は出なかった。
「エリンシア」
負傷した味方の傷を癒し終えたエリンシアと、軍議を終えて戻ろうとするアイク。両者の出会いは偶然ではあったが、姿を見るとすぐにアイクが声を掛けてくれた。
「アイク様、遅くまでお疲れ様でした」
「あんたの方こそ。丁度良かった。少し話がしたいんだが構わないか？」
立ち話も何だからと、アイクはエリンシアを部屋へ送りがてら報告する。曰く、策を練るのは新たな知らせが届いてからでも遅くはない。まずは静観して構えるだけだ、と。薄暗がりの中僅かな灯りに照らされて、冷たく無機質な石造りの壁に長さの違う影が伸びていた。
「それにしても、エリンシアには色々と迷惑を掛けてしまっているな」
「そんな、迷惑だなんて･･････」
「出来れば、あんたまでこんな事に巻き込むような真似はしたくなかったんだが」
「お気になさらないで下さい。貴方にはこれまで何度も助けて頂きました。その借りを今お返し出来ていると思えば、これほど嬉しい事はありません」
言いながら、アイクの歩みがはたと止まる。先に行こうとしていた筈だが、気付いてエリンシアも慌てて立ち止まると、どうしたのかと不思議そうにアイクの横顔を見上げた。無愛想にしていた顔がゆっくりとこちらへ向き、視線が交差し合う。
「すまない」
「･･････え？」
「俺に気を遣ってくれているのだろう？」
「何故そのような事を仰るのですか。そんな事ありません」
「俺はあんたから預かった兵の命を無駄にしてしまったんだ。あんたの気持ちを知っていながら･･････将としての役割なんぞ、何も果たせてはいない」
「アイク様･･････」
冷静に話してくれてはいるが、言葉の中に隠されたアイクの真意を読み取って、エリンシアの心が鈍く揺れ動いた。
皇帝軍への助力を要請した時、クリミアの兵達は迷わず責務を全うする事を誓ってくれた。祖国再興の支えとなったベグニオン皇帝サナキに対しての恩義もあっただろうが、何よりも彼らを奮い立たせたのは、女王であるエリンシアと軍の将であるアイクに対する忠誠心に他ならない。
無論、全ての者が無事に帰還出来るようにと願っていた。一方で、もしかしたらという思いもあった。必ずや成果を上げて、祖国へ戻る。力強く語りながら出立する兵の姿に、エリンシアは複雑な思いを抱きながら、ただ彼らの武運を祈る事しか出来なかった。
「どうかご自分を責めないで下さい。彼らの命は、私が失わせたようなものです。私が貴方に従うよう、望んだから･･････」
去来する感情を押し殺すように、エリンシアは胸の上に両の手を乗せて固く握り締めた。祖国の民を犠牲にしてしまった事も悲しいが、アイクが負っているものの重さを思うと尚の事悲しみは増してくる。
「随分と寛容なんだな」
誰ともなしにアイクが呟く。さっき聞いた時よりも、その声には憂いの色が帯びているように思えた。
「そうでしょうか？」
「ああ。そんな風に言われてしまうと、何だか調子が狂う」
見つめる表情にも同じような変化が表れている。気のせいでは無かった。他の者なら気付かないで済む所だが、これまで何度も苦難を共にしてきたからか、今のエリンシアは僅かな変化さえ見逃さなかった。
「私は本心をお伝えしたまでです」
アイクの変化を打ち消すように、静かに、しかしはっきりとした口調でエリンシアは言葉を紡いだ。その勢いにアイクは一瞬面食らうも、直に表情を元に戻す。
「そうか･･････」
低く声が響いた後、口元が引き結ばれる。急に黙ってしまったアイクに、エリンシアは気に障る事を言ってしまったかと不安を募らせた。何度も目を瞬かせ、小首を傾げてアイクの様子を窺っている。
浮かんだ不安は杞憂に終わった。アイクの両の手がエリンシアの肩に触れ、ごく自然に己の元へと引き寄せる。一瞬の出来事ではあったが、華奢な身体はまるであつらえたかのようにアイクの腕の中に収まっていた。
「･･････アイク様？」
不意に抱き締められて、エリンシアは困惑した様子でアイクを見上げた。アイクは何か訴えたそうに、強く視線をこちらへ注いでくる。伝えたい事があるというのは理解出来る。しかし、その思惑が何であるかまでは読み取る事は出来なかった。
「すまない、エリンシア」
耳元で囁かれる声にアイクの吐息が交じる。こそばゆい感覚に耐えられず、エリンシアは思わず身を震わせた。
「どうやら俺は、あんたの優しさに甘えてしまっているようだ･･････情けない事に」
そう言って、アイクはエリンシアの首元に顔を埋める。背中に回される腕の力が強くなったのを、エリンシアははっきりと感じていた。
「あ･･････」
エリンシアの口から、感嘆にも似た溜め息が零れる。急に、ひた隠しにしていた感情が波のように浮かび上がって来て、瞬く間に身体中を駆け巡っていった。今まで押し留めていた心の痛みは、まるで鋭利な刃物のようにエリンシアの胸に突き刺さる。抱き締められて緊張の糸が切れたからなのか、或いはその逆だからなのか、理由は分からない。しかしながらアイクの言葉と行動によって、エリンシアの中で言い表せないような感情が生まれているのは紛れもない事実だった。
「･･････構いません」
息苦しさを抑えながら、エリンシアは言う。
「他ならぬアイク様だからこそです。アイク様であれば、何を言われても、何をされても、赦す事が出来るのです。ですから、どうか･･････」
独りで全てを被ろうとしないで下さい。今にも消え入りそうな声で、エリンシアは訴える。それは哀願にも似た言葉だった。
暫し沈黙してから、肩口に置かれていたアイクの顔がゆっくりと上がり、視線はエリンシアの方へと向けられた。互いの目と目が合い、どうしたのかと問う間も無く、エリンシアの身体は壁際へ押しやられてそのまま唇を塞がれる。背中越しに伝わる冷気とは対照的に、唇を覆う熱は温かい。息を吸おうと僅かに口を開こうとすれば、すぐに吐息ごと閉じ込められてしまう。声を出す事も、身動きをとる事も出来ず、エリンシアは戦慄しながらきつく両の目を閉ざして、アイクから与えられる口付けを受け入れていた。
何度目かの「攻防」の後、エリンシアはアイクの拘束から解放される。しかし、気恥ずかしさ故にアイクの顔をまともに見る事は出来ない。咄嗟にアイクの胸元に顔を埋め、逸る気持ちを鎮めようと自らに言い聞かせるも、一度昂ぶった感情はそう簡単に引こうとはしなかった。
「･･････エリンシア」
アイクの声が耳元を掠めていく。口数は少ないが、紡がれる言葉の中にエリンシアはアイクの確かな意思を感じ取り、一瞬戸惑うも、やがて小さく頷いた。そっと手を引かれ、部屋までの残された距離をおもむろに歩いて行く。これは逃げなどではない。エリンシアは無言の言い訳を脳裏に浮かべた。他に方法を知らないだけなのだ。蟠りと慈愛と憂慮と、様々な感情が増幅した時に、ましてこの戦火の中、追い詰められたような状況で、どうしたら良いかなど。
辿り着いた扉の奥で、灯された暖炉の火が辺りを照らし、部屋の主と客人を温かく迎え入れようとしていた。
両の手首はアイクの手によって封じられ、寝台に縛り付けられたような体勢のまま、エリンシアは切なげにアイクの顔を見つめた。纏っていたものは既に取り払われ、今までに感じた事の無いような鋭い眼光が生身の肌に降り注がれている。はっきりと激情を露わにするアイクに対して、エリンシアは微かに畏れを抱きつつも、その心は歓喜に打ち震えていた。
感触を確かめるように、アイクの指と舌がゆっくりとエリンシアの肌の上を這う。触れられる度に例えようのない感覚が沸き上がり、浅い呼吸の合間からエリンシアは苦しそうに声を漏らす。抑える事など出来なかった。エリンシアの喉元から甘い響きが紡がれる毎に、指と舌の動きはその激しさを増していった。
強く抱き竦められ、名前を呼ぶ掠れた声が耳元に入って来る。情念は留まる事を知らず、エリンシアもそれに応えようとしなやかな肢体を絡ませ、乱れた吐息の中からアイクの名を呼んだ。
窓の外は暗く、陽を昇らせる術など持っていないような様相を保っている。雪の残る夜は余計な音を掻き消してしまうせいか、互いの息遣いと、敷布の擦れる音と、肌と肌のぶつかる音がやたらと響いて聞こえる。今このひと時が、エリンシアには何よりも愛おしかった。早くこの熱を散らしてしまいたい。まだ散らせたくはない。相反する気持ちが綯い交ぜになって、胸が酷く疼く。縋るような思いでアイクの逞しい身体に抱き付くと、呼応するように温かい熱の支配がエリンシアの身体に広がっていった。
ぼんやりと外の景色を眺めていたエリンシアの目が僅かに見開いた。澱んだ空からは白い雪の粒が幾重にも舞い降りてきて、くすんだ銀世界をまた新しい色へと染め上げていく。部屋の中から僅かに垣間見える、踏み固められた道の跡も程無くして消えていくだろう。
「そんな所にいると風邪引くぞ」
不意に声を掛けられて、エリンシアははっと我に返る。振り向くよりも先に後ろから優しく抱き締められて、思わず息を呑んだ。どうやらアイクも起き抜けの格好のままらしい。薄手のマントの布越しではあるが、直に伝うのと同じような肌の感触からエリンシアはそう理解する。冷えかけてきていた細身の身体は柔らかい厚手の掛布にくるまれ、失われていた温かさを取り戻そうとしていた。
「少し考え事をしていたものですから。ごめんなさい、起こしてしまいましたか？」
「いや、そんな事は無い。それより、一体何を考えていたんだ？」
「これからの事を。本当に、少しだけですが･･････」
「･･････そうか」
アイクの問い掛けに対し、エリンシアは言葉を濁して言う。限られた休息の時を妨げるような事はしたくはなかった。先の見えない不安に対して、余計な詮索をして思い煩うのは自分だけで良い。そんな思いを知ってか知らずか、アイクはそれ以上何も尋ねない。ただじっと黙って、エリンシアの身体を抱き締め続けながら、同じように窓の外を見遣った。
「この調子だと、かなり積もりそうだな」
雪の降るさまを見て、独り言のようにアイクが呟く。他意は無いのだろうが、アイクの言葉にエリンシアには少しだけ心に引っ掛かるものがあった。
この雪が明け方まで続けば、恐らく両軍ともに出撃要請が下る事は無くなるだろう。ただでさえ動きが鈍くなりやすい今の季節に、足元の悪い中戦地へ赴くのは自らの首を絞めるに等しい。根本的な解決には至らないが、それでも新たな犠牲が出るよりはまだ心は救われる。出来ればこのまま雪が止まずに済むように。そんな、思ってはならないような願望が頭をもたげてくる。
「ところで、さっきからずっと気になっていたんだが」
急に話し掛けられ、エリンシアは慌てて考えていたものを脳裏へ仕舞い込む。ゆっくりと後ろを振り向くと、アイクの視線はエリンシアの顔ではなく、肩から胸元にかけて注がれていた。目線で察したのか、エリンシアの表情に焦りのようなものが浮かぶ。
「それは俺の･･････」
「･･････あ、ご、ごめんなさい。勝手にお借りしてしまって」
エリンシアは慌てて羽織っていたマントを取ろうとするが、アイクの手によって阻まれた。無表情のまま見つめられて、決してアイクが腹を立てているわけではないと分かっていても、浮かんだ焦燥はその色を濃くしていく。
「いや、返せと言ってるわけじゃない。ただ、どうしてあんたがそんなものを？」
「･･････いけませんか？」
「別にそんな事は無いが･･････」
エリンシアは困ったように眉を顰めた。アイクが疑問に思うのは想定の範囲ではあった筈だが、果たしてどう説明したら良いものか。自分の心境を理解してもらえるような言葉を必死になって頭の片隅で探す。
「もう少しだけ、余韻に浸っていたかったのです。その･･････貴方との」
弱々しい声でエリンシアは呟いた。最後の方は今にも消え入りそうな程だったが、アイクには届いたらしい。突如として半ば無理矢理に押し倒され、エリンシアの視界が揺らぎ、背中には固い木質の床の感触が伝わってきた。思った程の冷たさを感じなかったのは、アイクのマントが褥の代わりとなってくれているからだろう。エリンシアの唇にアイクの唇が重なり、それでも飽き足らないのか、透き通った肌の上を無骨な指先が侵食していく。すっかり収まった筈の強熱が再び沸き上がって来て、エリンシアの胸の鼓動は一気に加速していった。
「あ･･････待って、アイク･･････」
力無く、エリンシアは両の手でアイクの身体を遮ろうとする。無駄な訴えのようにも思えたが、それでもアイクには伝わったのか、弄っていた手の動きがぴたりと止まった。
「･･････何をしても、赦してくれるんじゃなかったのか？」
だが続ける意思はあるらしい。エリンシアは小さく頭を振りながら、懇願する。
「だめです･･････こんな所じゃ･･････」
これが最後の抵抗と言わんばかりに、エリンシアはか細く囁く。止める気など、元より無かった。
アイクはエリンシアの意を汲むと、羞恥と期待に震えるその身を抱きかかえる。耳元でマントの滑り落ちる音が聞こえたが、二人は気にも留めない。再び身体を寝台に沈められて、エリンシアは戸惑いながらも恥ずかしそうに微笑んだ。そっと手を伸ばせば、すぐにアイクの手が絡み、力強く握り返される。
甘い思い出にただ浸っているだけの時間は終わりを告げた。窓の外は未だ深く暗く、澱んだ空の色は変わらず、舞い落ちる雪もその勢いを弱める事を知らない。明け方を迎えるまでに、二人がもう一度肌を温め合うのに必要な時間は、充分過ぎるほどある。
重苦しい現実が消えるわけでは決してない。それでも、今はまだこの酔狂のようなひと時に身を任せていたかった。
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人の上に立つ者とはいえ、まだまだ彼らは若いですから
(2015/02/22)