帆は下がり、広がり、霹めき (1)
形式ばった音楽は、斯くも味気無いものなのか。広間の隅に点在する支柱に背中を預け、ふと思う。調律の整った弦から紡がれる旋律も、寸分の狂いも無く生まれる拍も、調和する残響も、自分にとっては退屈以外の何物でも無かった。欠伸を噛み殺し、朧げに視線を彷徨わせる。きっと、これが妹のような年頃の少女であれば、淡い期待と予感を抱きながら、目を輝かせて夢のような一時に浸るだろうが、そんな気分には到底なれなかった。
目の前で繰り広げられる光景、男女が一組となって手に手を取り合い、流れる調べに乗せて優雅に広間を円舞する、それは自分とは全くの無縁の世界だった。その輪の中心に、戴冠式を終えて女王となったエリンシアの姿もある。クリミアを象徴する純白のドレスが舞う度に翻り、余興の場に彩を添え、一際目映く輝いて見えた。
不意に音楽が途切れ、人々は円舞の輪から離れていく。だが、エリンシアは未だ広間の中央で佇んでいた。彼女の目の前にはすぐに次の相手が現れ、恐らくは地方貴族の者だろうか、恭しく膝を折るとエリンシアもそれに応え、互いに手を差し出したのを合図に、再び流麗な調べが紡ぎ出される。まだ終わらないのか。半ば苛立ちにも似た溜め息をそっとアイクは吐く。朝からずっと式典と晩餐の準備に追われていたが故に、流石に暇を貰いたいと思うも、女王の護衛という務めがある手前、それも叶わない。
「暇そうだな」
横から聞こえてきた声にアイクは一瞥するも、声の主をはっきり見ようとはしない。不機嫌そうにしていた表情を益々強くして、その苛立ちを露にする。
「それは嫌味か？ これでも俺は、任務の真っ最中なんだが」
「いや、冗談だよ。そんなに怒らなくても良いじゃないか」
恐る恐る色違いの瞳で見上げられ、同時に獣牙特有の尖った耳が垂れるのが見えた。射抜くように強い視線を返すと、両手を前に広げられ、「まあ待てよ」と憤りを鎮めるように訴えられる。
「俺だって任務の途中なんだし、一緒だよ、一緒」
「さあ、な。あんたは対象がすぐ近くにいるだろうが、俺は違うんだからな」
アイクの視線は、少し離れた場所へと向けられた。異種族の戦士達も、クリミア再興に一役買ったその功を称えられ、要人の何名かは今も晩餐の場に留まっている。ベオクとラグズ、両者の偏見が未だ根強く残る大陸の歴史に於いて、それは珍しく、革新的な事でもあった。
「しかし豪勢なもんだね。一国の王が決まるとなると、こうも大掛かりになるとは」
「ああ。デインの支配から解放された後だから、余計にな」
「大変だったろ？ 朝からずっと動きっ放しで」
「それを言うならお前の方こそ。俺にはかなり無理してるように見えたが？」
「そうなんだけどな。でもクリミアとガリアの友好関係を保つ為には、必要な働きだった訳だし」
言葉を交わす間にも、流れてくる音が気になるのか、ライの耳が忙しなく動く。落ち着きの無い事だ、思うも、興味を示そうとしない自分より、余程体は良いのかもしれないと思い直した。
二人、並んで円舞の様子をぼんやりと眺める。
「長いな」
「ん？ 何が？」
「見れば分かるだろう。いつになったら終わるんだ」
「ああ･･････成程ね」
最初の演奏が始まってから既にかなりの時間が経過していたが、収束する兆しは見えない。いい加減、立ち尽くしたままでいるのも限界だ。その都度変えてはいるのだろうが、馴染みの無い音楽はどれも同じに聞こえて、それが益々退屈さに拍車を掛ける。
「全く、呑気なもんだな。こんな事に時間を使うなら、さっさと国の復興に向けて動けば良いものを」
「お前の言う事は最もなんだが･･････。まあ、慣例だしなあ」
「それに、エリンシアだって疲れているだろう。さっきからずっと踊り通しなんだぞ？」
「だな。本当に健気だよ、あの姫様は。今だって何を言われているか･･････」
今だって何を。その言葉に引っ掛かるものを感じて、輪の中心に向けられていたアイクの視線が、ふと真横へと向けられる。
「待て、ライ。どういう意味だ？」
「え？ 俺、何かまずい事でも言ったか？」
「エリンシアは、ただ延々と踊らされているだけじゃ無いのか？」
浮かんだ疑問を素直に口にするも、ライの表情は呆気に取られたように固まり、それからすぐに「ああ、そういう事か」と溜め息が漏れる。
「アイク。お前、本当に何も分かっちゃいないんだな･･････」
「前置きは良いから、さっさと話せ。分からんものは分からん」
眉一つ動かさず、一直線にきつい視線を送られて、半ば困惑したようにライは首を傾げた。
「あんなに国の要人が城に招かれたんだ。それは、女王との謁見が認められた事になるだろう？」
「ああ、そこまでは理解出来る。だが、それとあの余興と、何の関係があるんだ？」
「考えてみろ。踊る相手は一人、あの場は女王と私的に話す事が出来る、数少ない機会だ」
「そうだな」
「クリミアはまだ再興されたばかりだ。でも奴らは、自分達の保身の為に早くも動き始めている」
「･･････つまり、あいつらは自分の訴えをエリンシアに聞いて貰う為に、ああしていると？」
「そういう事だ。女王様も気の毒なもんだね。即位早々あの調子じゃ、気の休まる暇なんか無いぞ」
言われて、アイクの視線は無意識の内にエリンシアの方へと向けられた。僅かに唇が動いているのは、ライの言う通り何らかの陳情をされているのだろうか。長いこと踊り続けているというのに、彼女は疲労の色など一切見せず、対面する相手に向けていつもの柔らかい笑みを浮かべている。だが、決して心からのものでない事はすぐに読み取れた。同時に、それが女王としてのエリンシアの務め故だという事も。痛々しいまでに真摯な姿が、これから彼女が背負うものの重さと大きさを予感させて、胸の奥が掻き乱されるような、きつく締め上げられるような不快感を覚える。
「･･････さて、俺も行って来ようかな」
力いっぱい伸びをしてから、ライがおもむろに呟いた。慌てて、考えていたものを脳裏の隅へと追い遣る。
「行って来る？ 何処へだ？」
「え？ 女王様の所だよ」
「･･････！ ライ、ちょっと待て」
エリンシアの元へと行こうとするライを、アイクは勢いよく胸倉を掴んで制止させる。
「う、うわ、何するんだよ」
「その言葉、そっくりそのまま返させて貰おうか」
余程驚いたのか、ライの身体は頭の天辺から尻尾の先まで、毛が逆立っていた。構わず、アイクは続けて問う。
「お前、エリンシアに何をしようとしている？」
「あー･･････これには色々と事情があってだな。ほら、俺もガリアの使いの一人だし･･････」
「御託は良いから答えろ」
強要されて、一瞬ライの表情が固まり、視線が宙を彷徨う。伝えるべきか否か、考えあぐねているように見える。それも忽ち収まり、観念したのか、溜め息を一つ吐いて、僅かな間を置いてから口を開いた。
「･･････悪いな、アイク。俺がしようとしているのは、あいつらと似たようなもんだ」
淡々と紡がれる言葉に、今度はアイクの表情が固まる。
「クリミアの貴族を前に、ベオクであるあの姫様と、ラグズである俺が接点を持つ･･････。それは奴らに俺達獣牙族の存在を示す為には必要なんだ」
「当て付けに、自分達の力を見せるという訳か」
「当て付けだなんて、これっぽっちも思っちゃいない。そんな浅はかな事を考えるのは奴らニンゲンだけだ」
「･･････俺にとっては、どっちも同じに見えるがな」
「分からないか？ 女王だって、ガリアとの結び付きを強く求めている。今はそれを公に表せる絶好の機会だ。俺達だけじゃない、これは彼女にとっても益となる事なんだ」
「つまり、両者に弊害が無ければエリンシアを利用しても構わないと？」
「ああ、そうだ」
「
──
！」
例えようの無い感情が全身を巡り、アイクは思わず掴んでいた手の力を強めた。だがすぐにこの場の状況を思い出し、軽く舌打ちすると、些か乱暴にライの身体を突き放す。
「･･････勝手にしろ」
視線を下に落としながらそう吐き捨て、きつく口元を引き結んだ。決して悪意がある訳では無い。
確かにその言い方は癪に障るが、自分に伝え易くする為に敢えてそうしたのだという事は、流石に理解出来た。アイクの態度にライは困惑するも、そう簡単には鎮まらないと悟ったのか、諦めて身体ごと広間の中央へと向き直る。
「アイク」
「･･････何だ」
「熱くなるのは構わないが、もう少し周りを見渡した方が良い。
お前の知らない所で、駆け引きは始まっているんだからな」
「ああ、肝に銘じておく」
「それともう一つ」
「ん？」
「俺個人としては、楽しみなんだ。お前を差し置いてエリンシア様と踊れるのが」
「な･･････！？」
引き止めようとして伸ばした手は、虚しく空に弧を描いた。あっという間に、輪の中に入り込んでしまった勢いは、自分だけではどうする事も出来ず。
「エリンシア様」
「
──
！ ライ様」
エリンシアの目が大きく見開かれるのが、遠くに立つこちらの場所からでもはっきりと感じられる。ライがエリンシアの前に立つのと、演奏が終わるのはほぼ同時だった。不意に女王の目の前に現れた異種族の若者に、周囲が騒然となる。己が立場を弁えるべきだ、我々と同じ事が半獣に出来る筈が無い、そんな軽蔑の眼差しが一点に寄せられていた。
「クリミアとガリア、両国の友好の証に、宜しければご一緒頂けませんか？」
だがライは怯まない。ゆっくりと膝を折ると、左の胸に手を当てて頭を垂れ、女王に対して敬意を示した。俄仕込みではない、慣れた動作に、あちらこちらから感嘆の溜め息が漏れる。
「喜んで、受けましょう。どうか、貴方がたの住まわれる国が、益々豊かなものとなりますように」
穏やかな声が広間に響き渡り、澱みかけた空気は一瞬の内に真逆のものへと変わる。最初は緊張気味にしていたエリンシアの表情も、ライの手を取った途端にふっと和らいだ。それとは対照的に、離れた場所のアイクは不満げな面持ちでいる。
正直に言うと、愕然とした。文化も習慣も違うラグズの者が、ああも容易くベオクの立ち振る舞いを真似るとは。恐らくは、政を円滑に進める為にやむなく会得したのだろうが、その動作はどんなクリミアの貴族よりも誠意の伝わるものであった。
無意識の内に、視線は余興の一時に更ける二人の姿を追う。円舞の動きも手馴れたもので、エリンシアもライも心底楽しんでいるように見えた。特にエリンシアの表情には、先のものとは全く違う安堵にも似た笑みが浮かんでいて、それが余計に苛立ちを募らせる。共に戦ってきた仲間同士、そうなるのは自然な事とはいえ、どういう訳か引っ掛かるものを感じて、胸がさざめくのを抑える事は出来なかった。
退屈な時は、未だ収束する事を知らず。もう暫くは続くのだろう。周囲に目を遣り、人々の視線が広間の中央に寄せられているのを確認してから、そっと踵を返し、王城の廊下へと抜け出て行く。心の安定が無ければ、護衛の任務も侭ならないのだと、無言の言い訳をしながら。
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