帆は下がり、広がり、霹めき (2)

　長く張り出された露台を、白い月が静謐な輝きを以って包んでいた。朝からずっと城の中にいる事を余儀無くされていた所為か、外の空気が普段よりも新鮮に感じられる。

　逃げて来た、と言ってしまえばそれまでなのだが、漸くあの堅苦しい空間から解放され、気の休まる時間が出来たというのに、浮かんだ蟠りはなかなか消えなかった。クリミア貴族達のしたたかさを知ってしまったからなのか、ライの言葉に因るものなのか、それともそのどちらともなのか。思案するも、心の穴を埋める答えは出て来ない。

　祖国再興は成された。しかし遺された傷跡は深く、以前のような平穏が戻るまでは長い時間を要する。となれば、次の為政者であるエリンシアが、クリミアの内情に目を向けなければならないのは、至極当然の事だ。そして、それが全て彼女の意向に沿うものとは限らない。自分も同じだ。父の後を継いで団の長となった時、皆が皆、納得して己が主張を聞き入れた訳ではなかったのでは無いのか。

　ふと、腰に収めてあった剣の柄を握り、おもむろに引く抜くと、月下に刀身を晒す。亡き父から譲り受けてから今日に至るまで、ずっと共に在り続けたその刃には一転の曇りも無い。月明かりに映し出される剣先の光と、白の衣装に身を包んだ先のエリンシアの姿が、ぼんやりと重なる。

　この剣で、何処までも強くなろうと決心した。叙勲の儀式で使用され、手ずから受け取った後は、 彼女を護り抜こうという誓いへと昇華された。その思いは、これからも変わらない。だが、現実は。 誓いなど、抱き続けてはいても、果たされなければ意味は無い。戦争が終結し、剣を振るう必要が無くなった今、彼女の求める強さは違う形へと変化した。同時に、それが自分にとって最も不得手なものであるという事も。

　否、知る機会はあった筈だ。ただ、要求が自分ではなく、主君である彼女に向けられていたが故に、余計な負担を与えまいと、心の内に留めていてくれたのだ。今更何を嘆こうというのか。不向きだからと目もくれず、避けて通ってきたのは、他の誰でもない己自身なのだから。


「･･････こちらにいらしたのですね」

　不意に後ろから声が聞こえて、慌てて持っていた剣を鞘の中へと仕舞い込む。声のする方を振り返り、現れた人物を見て面食らった。目の前で佇むのは、ずっと広間にいた筈の女王エリンシア、その人だった。

「･･････エリンシア？」
「探していたのですよ。いつの間にかお姿が見えなくなってしまったものですから」
「そ、そうだったのか。でも大丈夫なのか？　あんたがここに来てしまって」
「少しだけ時間を頂きました。今は他の者が場を繋いでくれていますから、私の事ならお気になさらず」
「そうか、なら良かったんだが･･････」
「きっと、お疲れだったのでしょう？　申し訳ありません、私が至らないばかりに」
「いや、あんたの所為なんかじゃない。俺が勝手にした事だ。非はこちらにある」

　滅多に動じない筈の面持ちに、狼狽の色が濃く浮かぶ。主君を差し置いて任務を放棄するなど以ての外だと、今になって思い直しても、時既に遅く。視線を合わせまいと、気まずそうに顔を横に背ける。だがエリンシアの穏やかな声は変わらず、それが罪悪感を益々募らせていた。

「アイク様がここにいて下さって、助かりました」
「助かった？　どういう意味だ？」
「正直に申し上げると、私も少し休みたかったのです。あの状態では、なかなか抜け出す切欠がありませんでしたから」

　悪戯っぽい笑みを浮かべて、エリンシアが口元を綻ばせた。公の場では絶対に見せない年相応の表情に、少しだけ心が救われる。

「しかし、俺だけでも早く戻った方が良いんじゃないか？　あんたの体裁もある事だし」
「皆様には断りを入れてありますから大丈夫です。ただ･･････」
「ただ？」
「条件があるのです。私と踊って頂けませんか？」
「！？　俺がエリンシアと？」
「ユリシーズが余計な事を言ってしまったのです。『我らが女王陛下とクリミアの勇者が戻った暁には、お二人で興をお披露目頂きましょう』と･･････」
「････････････」

　予想外の言葉に、思わず絶句する。脳裏を掠めたのは、「有り得ない」の一言だった。

「も、申し訳ありません。難儀な話だと分かってはいるのですが･･････」

　硬直したまま微動だにしないアイクに対して、エリンシアが遠慮がちに言う。彼女とて、アイクが貴族社会の慣わしに疎い事は、重々承知している。

「アイク様がお嫌でしたら、私から説得します。どうか無理はなさらないで下さい」

　言われて、アイクは必死に思考を巡らせる。このままエリンシアの厚意に縋り、事なきを得ることも可能だ。しかし、それではやはり彼女の面目は立たない。今し方も痛感していたではないか。庇うつもりが庇われている、その無力さを。

　先のライの行動を、ふと思い返す。彼は「自分のする事は彼女の為でもある」と話していた。自分達の意向を示す、それはエリンシアの顔を立てると同時に、従者としての礼節を尽くす事にも繋がっていた。しかも、あの大事な場面で、自然な流れの内に。彼は、利用している、などと自らの行動を卑下していたが、そんなつもりは毛頭無く、何よりもエリンシアの事を優先したが故だったのだ。

「私は大丈夫ですから、アイク様ご自身の意思を尊重して下さい」
「いや、構わん」
「え･･････？」

　そうして貰いたい、と言われると思っていたのだろうか。予想していたものとは違う返答に、エリンシアがきょとんとした顔付きで、目を瞬かせる。

「俺には、あんたの体裁を守る義務がある。だから教えてくれ。俺はどう動けば良い？」

　それは対抗意識のようなものだった。異種族であるライが出来るのなら、エリンシアと同じベオクの自分に出来ない筈は無いと。

「あ･･････でも、それではアイク様が」
「俺の事は二の次で良い。時間が無いんだ。頼む」
「･･････はい」

　宴の主役が長いこと席を外しているのは良くないと、語気を少しだけ強めて訴える。エリンシアは腑に落ちないといった様相だったが、やがてその意思を汲んだのか、小さく頷いた。

「では、まず私の両手を取って頂けますか？」
「両手･･････？　それだと、あいつらがやっていたのとは違う形になるんじゃないか？」
「慣れない内は、お互いに少し距離を開けた方が良いのです。私もそう教わりましたから」

　アイクは素直にエリンシアの言葉に従い、両の手でエリンシアの手を取り上げる。こういう時は、分かる者の言う通りにした方が早いのだ。

「それで、それからどうすれば良い？」
「ええと、私は後ろへ下がりますので、アイク様は右足を半歩斜め前に出して下さい」
「･･････こうか？」
「はい。それから次は、左、右、とその場で交互に踏んで頂いて･･････」
「その場で、交互に･･････」
「それが終わったら、今度は左の足から踏み出して下さい」
「左の足から･･････」
「ええ。あまり大きく動き過ぎると、重心が傾いて ── っ･･････！」
「･･････すまん、蹌踉めいた」

　円舞の相手となる女王本人から、直接手解きを受けるという何とも奇妙な光景が広がっている。だが、それをアイクは恥だとは思わなかった。己が自尊心は、彼女がずっと守ってくれていたのだ。その心を思えば、一時の労苦など取るに足らないものだった。

　動きを覚え、頭の中で思い描いて、反復してはまた躓きそうになり。その度にエリンシアは辛抱強く、言葉を変えてアイクにどう動いたら良いかを伝え直す。

「もう一度、やってみますか？」
「ああ、頼む」

　お世辞にも優雅とは言えない動作。しかしぎこちなかった足付きは、次第に慣れたものへと変わって行く。何度も繰り返す内に、エリンシアの言葉を助けとしなくても、どうにか止まらずに一通りの動きはこなせるまでになった。

「これなら皆様の前でお披露目しても、きっと大丈夫だと思います」
「そうか？　どう見ても、俺が足を引っ張っているようにしか思えんが」
「そんな事はありません。とてもお上手ですよ？」
「あんたの教え方が分かり易いからな。そうでなかったら、とっくに投げ出してる」
「ふふ･･････謙虚なのですね」

　エリンシアは微笑むが、アイクは「事実だ」とあくまで真剣だった。


「さあ、そろそろ行きましょうか」

　これ以上、徒に時間を使う訳にも行くまい。言って、エリンシアは共に広間に戻るようアイクに促す。

「いや、待ってくれ。もう一度だけ、最初から全部確認したい」
「予行演習、という事でしょうか？」
「ああ、悪いな」
「構いません。それでは･･････我が祖国クリミアの勇者様、宜しくお願い致しますわね」

　あまりにも自然な動作で深々と一礼するので、アイクも慌てて膝を折り、エリンシアに従う。ただ組み合って動くだけではない、その前の段階から既に興は始まっているのだ。何度もあの場で見ていた事ではないか。アイクは密かに省みた。

「私はアイク様に合わせますから、これで良いと思う所まで続けて下さいね」

　ゆっくりと立ち上がり、短く「ああ」と頷くと、先程と同じようにエリンシアの両の手を取り上げる。しかし、アイクはすぐに動こうとはしない。握った手はそのままに、眼下のエリンシアをじっと見つめている。なかなか最初の歩を踏み出さない事が気になったのか、エリンシアはどうしたのかと小首を傾げた。

「アイク様？」

　耳元にエリンシアの声が小さく響き、アイクははっと我に返る。

「ん？　ああ、いや、ちょっとな･･････」
「どうかされましたか？」
「思ったんだが、体勢はこのままで良いのか？」
「体勢、ですか･･････？」
「これはあくまで慣れるまでのものであって、正式な形じゃない。 だから ── 」
「 ── ！」

　アイクの右手が、エリンシアのドレスの切り替えを、もっと詳しく言うなら、背中と腰の境目にあたる場所を掴む。急に触れられたからか、それとも互いの距離が近くなったからか、エリンシアは困惑した眼差しでアイクを見上げた。

「こっちの方が良いだろう？」
「は、はい･･････」

　思いの外強い力で引き寄せてしまい、一瞬アイクも己の猛進を後悔するが、してしまった以上は後には退けなかった。

　教えられた通りに、ゆっくりと右足を踏み出す。エリンシアはまだ何か言いたそうにしていたが、動き出してしまっては無理だと悟ったのか、すぐに開き掛けていた唇を引き結んだ。


　格調高い音楽も、華やかな装飾も、見守る観衆の姿も無い場所で、二人だけの舞踏会が続く。

　聞こえるのは拍を刻む靴の音、見えるのは白銀の光を浴びて煌くエリンシアの姿。互いに何も語らず、視線は離れず、静かに時は流れて行く。否、音楽も言葉も、必要など無いのだ。寄り添う心があれば、自然と拍は内から生まれ、形となって紡がれる。余計な音や声など、今の二人にとってはただの足枷にしかならないのだから。

　軽やかに舞い踊るエリンシアに、まだあどけなさの残る笑みが浮かぶ。夢を見ているみたいです、密かに呟くのが聞こえた。空耳だとは思いたくなかった。心から嬉しそうに微笑む姿、それは今まで接してきた中で、最も彼女の本質に近いものだ、そうアイクは感じていた。

　ゆったりと露台を周回した所で、足取りがぴたりと止まる。見上げる無垢な面影は変わらず、僅かに朱が差しているのが見て取れた。年頃の少女が抱く淡い想いを、彼女も感じているのだろうか。興の余韻に浸るように、高貴な色の瞳は、月明かりを受けて波のように静かに揺らめいていた。

「あ･･････」

　エリンシアのか細い声が、互いの間に木霊する。それは衝動だった。アイクの両腕は、エリンシアの身体を引き寄せ、すっぽりと己の内に収めていた。決して思ってはならなかった。だが、そうせずにはいられなかった。

　行かせたくはなかった。彼女を、私欲と、偽善と、詭計に満ちた、黒い感情が渦巻くあの場所へなど。アイクは危惧していた。行ってしまえば、彼女が有りの侭の彼女でいられる理由が失われてしまう、と。

　腕の中に収まったエリンシアの身体はあまりにも小さく儚く、まるで不安定な海辺に揺れる小船のようだった。覚束ない足取りで、クリミアの全てを背負い、襲い掛かる波を受けながら、それでもその胸に希望という名の一筋の光を抱いて、航海を続けて行く。彼女の決意は固く、これからも変わる事は無いだろう。だが、先に照らし出される未来が、決して明るいものであるとは限らない。既にその兆候は見え始めている。もし、恐れている事が現実の上に起こってしまうのだとしたら。それが、アイクにとっては耐え難い苦痛だった。

　エリンシアの微かな吐息が、耳元を掠めて行く。胸の奥が酷く疼いて、堪え切れず、今一度強く掻き抱けば、また苦しそうに息を詰まらせる音が聞こえた。無防備な首筋に顔を埋め、仄かに立ち上る甘やかな香りに酔いしれる。脳裏に浮かんだのは、不安、焦燥、悲哀。そしてもう一つ、最も清く、気高く、尊い感情が ──

　腕の中で、戸惑いがちにしていた瞳がゆっくりと閉じられ、震える指先が己の袖を強く掴むのを感じる。自覚してしまった情念を散らす術など、分かる筈も無い。ただ一つ、重なり合った互いの影だけが、何処までも遠く、長く、細く、深淵の闇に溶け込んでいた。




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色々な物から感化され過ぎなネタですが、とりあえず
(2012/05/25)