明星は晦冥を分かち (3)

　レオンに案内されて、今いた場所から最も近い接見用の部屋へと通される。すっかり気が抜けたのか、エリーゼは部屋に入るなり、備え付けられていた長椅子に座り込んでしまった。

「･･････そういう事だったのか。ごめん、こちらの者が失礼な事を言ってしまって」
「いや、良いんだ。暗夜に行く事が決まった以上、何か言われるのは覚悟の上だったし、レオン王子が謝る必要は無いよ」
「でも、幾らなんでも、言って良い事と悪い事があるわ･･････。あたしだけに対してならまだしも、タクミさんの聞こえる所であんな事言うなんて、本当に信じられない」
「ん？　ちょっと待って、エリーゼ王女。君だけに対してって、どういう事？」

　エリーゼの言葉に引っ掛かるものを感じて、タクミが問う。そういえば、先程の会話に於いても、彼女は高官達とのやり取りを「また」という言葉を使って発言していた。もしこれが初めての事であれば、そんな言葉は使わない筈だが、それが出て来るともなれば、今回のような事態は過去にも起こっていた。そう推察出来る。

「実は･･････あの高官達は、いわゆる保守派の者達なんだ。兄さんが王位を継承する前から、ずっと暗夜を支えてくれているのは確かなんだが、白夜の人間に対してはえらく辛辣でね」
「あたしが白夜から帰ってきて、それからしばらくして、タクミさんとの婚約を正式にお城の人達に発表したんだけど、そしたら急に色々言われるようになったの。あんな信用ならない国に嫁ぐなんてとんでもない、そんな事したら、向こうの立場を利用して、絶対良いように使われてしまう、って･･････」
「そ、そんな事があったんだ･･････」
「勿論、兄さんや僕らは窘めたし、向こうにも一応の弁えはあるから、表立って言う事は無くなったよ。でも、実際にタクミ王子が来た事で、色々たまってたものが吹き出ちゃったんだろうね。まさか、当の本人が聞いているとも知らずに･･････。全く、愚かな話だよ」
「あたしは白夜の人達と仲良く出来たから、きっと皆にもタクミさんの事を受け入れてもらえるって思ってた。でも、そうじゃない人もいる。理解してるつもりだったけど、やっぱり納得いかないわ。どうして、自分達がほとんど会った事も、話した事も無いような人の事を、あんな風に悪く言う事が出来るの？　あたしには分からない･･････」

　エリーゼの声は、今にも消え入りそうだった。きっと、自分の知らない所で、心無い言葉を何度も浴びせられてきたのだろう。か細く呟くその背中は、声と相まって、尚の事弱々しく見えた。

「･･････ともかくタクミ王子、今はエリーゼの気持ちを落ち着かせるのが先だ。ここなら多分誰も来ないだろうから、しばらくいても大丈夫だと思う」
「そうか、分かったよ。すまない、勝負の途中だというのに」
「気にしないでくれ。また明日、時間を見つけてやろう。じゃあ僕は残ってる仕事を片付けてくるから、これで。･･････エリーゼ、あんまり深く考えすぎるなよ」
「･･････うん」

　レオンが去り、部屋にはタクミとエリーゼの二人だけが残る。タクミはエリーゼの左隣に座り、その華奢な身体をそっと引き寄せた。どんな言葉を掛けたら良いのか答えが出ず、だからといって何もしないのはあまりに無責任すぎる。とりあえず行動で何か示した方が良いのだろう、そう判断してのことだった。

「･･････っ、タクミさん･･････っ！」

　エリーゼの手が、縋るようにタクミの腕に伸びてきた。きつく服の袖を指先でつまみ、胸元に顔を埋めて、微かに身体を震わせる。緊張の糸が切れたからなのか、固く閉ざされた双眸からは涙が零れ、エリーゼの頬を濡らしていく。悲哀、憂慮、義憤、様々な感情が、その小さな身体から溢れ出ていた。どれほどの辛い思いを抱えて、しかしながら決して表に出そうとせず、今まで耐えてきたのだろう。それも、彼女の為ではなく、自分の為に。タクミの胸中は、鈍い痛みを伴いながら、鈍く揺れ動いていた。

「ありがとう、エリーゼ王女。僕の自尊心を護ってくれて･･････」

　務めて穏やかに話す声とは対照的に、心は酷く重々しい。遣る瀬無さと歯痒さと、それらは全て、自分に対する憤りだった。

「･･････あたし、悔しかったの。タクミさんの事を悪く言われて･･････大好きな人の事を悪く言われて、本当に悔しくて悔しくて、仕方なかったの。だから･･････」
「うん、分かってる。分かってるよ･･････」

　エリーゼの心を労わるように、タクミの手はエリーゼの頭を優しく撫でる。他にも、何か言わなければいけない事がある筈なのに、それ以上言葉が出て来ない。ただ抱き締めて慰めるだけしか出来ない自分が、心底情けなかった。もしあの時、エリーゼよりも先に自分から話の中に割って入れば、多少なりとも彼女の心は救われたかもしれないのに。湧き上がってくる後悔の念は、声無き詫び言となって、タクミの脳裏に浮かんでは消えていった。


　それから、どれくらい二人で身を寄せ合っていただろうか。殆ど互いに話す事も無く、本当の所を言えば、掛ける言葉が見つからなかっただけなのだが、エリーゼにとっては気持ちを落ち着けるのに必要な時間だったらしい。やおらタクミの胸元からそっと顔を離して視線を上げ、ゆっくりと口を開いた。

「･･････ありがとう、タクミさん。もう大丈夫だから･･････」
「･･････本当に？　本当に、大丈夫？」
「うん。いつまでも落ち込んでたら良くないもの。ごめんなさい、心配掛けちゃって」
「ううん、良いよ。さて･･････遅くなるといけないし、そろそろ戻ろうか」
「そうだね。･･････あ、そうだ！　明日の予定を考えながら戻るのはどう？　一緒に行きたい所があるの！」

　エリーゼの顔には、本来の明るさが戻ってきていた。嬉しそうに目的の候補地を挙げるエリーゼの姿に、タクミもようやくほっと胸を撫で下ろしていた。


　接見室を出てから部屋に戻るまでの間、次の日の予定をどうするかを、二人で話し合いながら歩いた。無論タクミにも、白夜からの使者として、またエリーゼの婚約者として、暗夜の主たる者達との会合が控えている為、エリーゼとの時間を長く取れるわけではない。色々と相談した結果、午後の早い時間に外に出ようという事になった。外にはかつて闇市として賑わっていた場所があり、戦争が終結した後は国が公の市として認めた為、今では行き届いた管理の下、暗夜一の城下町として発展を遂げたらしい。城からあまり遠くない事、タクミ自身が暗夜の文化への興味が高い事もあり、話はすぐにまとまって、後は明日の約束の時間を待つのみとなった。

「タクミさん、送ってくれてどうもありがとう」
「どういたしまして。ゆっくり休んでね。･･････それじゃあ、また明日」
「うん。おやすみなさい･･････」

　エリーゼを無事に部屋の前まで送り届け、タクミは自らに宛がわれた部屋へと戻ろうとする。と、その時。

「あ･･････。タクミさん、ちょっと待って･･････」
「･･････えっ！？　な、何？」

　不意に服の裾を引っ張られて、タクミは驚いてエリーゼの方を見遣った。遠慮がちに指先で裾をつまむエリーゼの表情は、何処となく恥ずかしそうに見える。

「あのね･･････、暗夜では、親しい人同士でおやすみの挨拶をする時には、キスをするの･･････。だから･･････だから、タクミさんにもしてもらいたいな、って･･････」
「え･･････」

　裾をつまむ指先と同様に、エリーゼの言葉もまた遠慮がちだった。想像だにしなかったその内容に、タクミの思考回路が停止する。

「え、ええと･･････キスっていうのはつまり、口付けの事･･････なんだよね？」
「･･････うん」
「僕が、エリーゼ王女に･･････、その･･････口付ければ良いって事？」
「うん。駄目･･････？」

　上目遣いで見られてしまい、タクミはどうしたものかと困惑してしまう。恋人同士になってから、一瞬の淡いひと時を共有し合った事は勿論あったが、それはあくまで環境やら時間やらお互いの心情やら、その他諸々の色んな条件が重なった上で行ってきたものであって、就寝前に、しかもこんな唐突にいきなりやれと言われても、無理だ。まして、白夜の習慣には無かったものだから、余計に。

「ねえ、タクミさん･･････。駄目･･････？」
「･･････っ！　エリーゼ王女･･････」

　甘えた声が、更に追い打ちを掛けてくる。愛くるしいその姿に、眩暈を覚えそうになった。だが自分は、生粋の白夜人なのだ。幾ら暗夜の文化や習慣の知識はあっても、それを同じように出来るかと聞かれれば、答えは「否」だ。しかし、今日の高官達との一件を思えば、彼女の言う通りにしてあげた方が良いのも、また事実だった。

「タクミさん･･････お願い･･････」
「うう、わ、分かったよ･･････」

　何度も続く哀願に根負けし、タクミはエリーゼの要求を呑む事に決めた。エリーゼの両の肩を掴んで、思いの外強い力になってしまった事に密かに動揺しつつ、腹を括る。頤を指先でそっとつまみ、それを合図にエリーゼが目を閉じたのを確認して、自分も同じように目を閉じて唇を重ね合わせようとしたその時 ── ふと人の気配がするのを感じて、タクミは思わずそちらの方へ顔を向けてしまう。

「あら、お邪魔だったかしら？」
「カ、カミラ王女！？」
「お、おねえちゃん！？」

　視線の先にはカミラが立っていて、二人が今まさに口付け合う瞬間を見ようかという所だった。よくよく考えてみれば、カミラの部屋はエリーゼの部屋のすぐ隣にあるのであって、つまりはそういう事なのだ。

「ごめんなさいね、タクミ王子、エリーゼ。折角良い雰囲気だったのに、私ったら水を差すような事をしてしまって･･････」
「い、いえ･･････！　べ、別に、あなたが謝る事ではありませんから･･････！」
「そ、そうだよ･･････！　おねえちゃんは悪くないよ！　うん！」

　しどろもどろになりながら、タクミもエリーゼもその場を取り繕うとする。カミラは穏やかな表情を崩さず、それからふっと微笑んで、「私はこれで休むから、どうぞ好きなように続けて頂戴」とさらりと言い放ち、自分の部屋へと入っていった。思わぬ所で行為を止められて、二人ともぽかんとした表情のまま、しばらく固まってしまう。

「あ、あの、タクミさん･･････」

　エリーゼがまごついた様子で、口を開いた。顔をほんの少し赤らめて、続きはどうするのかと訴えかけてくる。好きなように続けろとは言われたが、自分の中では一大決心だったのに、それを予想外の形で見られてしまい、タクミの心は既に折れていた。寧ろこんな状態で、仕切り直しが出来る人間がいるのなら、会ってみたい。

「･･････ごめん、エリーゼ王女。やっぱり止めよう」
「え･･････？」
「･･････と、とにかく！　明日もあるから、早く寝るんだよ！　おやすみ！」

　口早にそう言うと、タクミは踵を返し、自分の部屋に戻ろうとする。その刹那、襟元を急に強く引っ張られて、驚く声を出す間も無く、頬に柔らかい温もりが触れるのを感じた。エリーゼがそうしたのだと理解するまでに、時間は掛からなかった。

「エ、エリーゼ王女･･････！」
「良いもん･･････。タクミさんがしないなら、あたしがするから！」

　エリーゼは恥ずかしそうに笑うと、「おやすみなさい」とタクミの耳元で小さく囁き、急いで自分の部屋へと入っていった。一瞬の事で何が何だかよく分からないまま、ぼんやりとタクミは立ち尽くしていたが、すぐに状況を整理し直し、はっと何かに気付いたように慌てて振り返ると、足早に自分の部屋へと歩き始めた。自然と歩幅は大きくなり、弥が上にも今し方起きた光景の一部始終が蘇ってきてしまう。歩きながら、この階の廊下が絨毯張りで良かったと、妙な所でタクミは安堵した。絨毯なら音を吸収してくれて、動転している足音を周りに気付かれずに済むから。

　温もりは一瞬で過ぎた筈なのに、頬に触れられた所がやけに熱い。こんな調子で、果たして今日は熟睡出来るのだろうか。そして、明日はちゃんと起きられるのだろうか。何とも形容し難い複雑な思いを抱きながら、タクミはただひたすら自分の部屋に戻る、その一点だけに意識を傾け続けた。



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