明星は晦冥を分かち (7)

「･･････びっくりしたなあ。まさか、マークスおにいちゃんまで泣いちゃうなんて、思わなかった」

　一段と夜は更け、タクミとエリーゼは互いの部屋までの距離を、ゆっくりと歩いていく。

「きっと、それだけエリーゼ王女の事を大事に思っていたんだろうね。まして君は、きょうだいの中でも一番年下なわけだし」
「そっか。そうだよね。おにいちゃん、いつもあたしの事心配してくれてたもん」

　先程までドレスを着ていたエリーゼだが、今は着替えを済ませ、いつもの見慣れた服装と髪型に戻っていた。当初、着替えには時間が掛かる事もあり、タクミはカミラにエリーゼの見送りを任せようと思っていたのだが、カミラから最後まで送り届けるのが殿方の務めなのだと言われ、結局近くの部屋でエリーゼを待つ形になった。待っている間はレオンと昨日のチェスの続きをする事になり、両者ともあまりに熱中し過ぎた為に、着替えを終えたエリーゼとカミラが部屋に入って来ても気付かず、早く終わりにして欲しいと催促される羽目になったのも、記憶に新しい。

「ねえ、タクミさん。この後少し時間ある？」
「え？　うん、大丈夫だけど、どうしたの？」
「良かったら、あたしの部屋に寄っていかない？　昨日はお茶、出し損ねちゃったから、今日は飲んでいって欲しいの」
「分かったよ。そういう事なら喜んで」

　タクミが二つ返事で了承すると、エリーゼは嬉しそうに目を輝かせた。これが、暗夜の王城の中で、暗夜の王女として過ごす最後のひと時だと、彼女も分かっているのだろう。残された時間を大切な人と過ごしたいと望むのであれば、その願いを聞き届けるのは至極当然の事だった。


　昨日と同じように部屋の前まで行き、今度はそのまま中へと通される。実は、マークスの戴冠式の時にも一度だけエリーゼに誘われて訪れた事はあったのだが、その時とはかなり異なる様相をしていた。

「エリーゼ王女･･････もしかして、随分片付けた？」

　応接用の椅子に座りながら、部屋の様子が変わった事に気付いて、タクミは尋ねた。

「え？　うん、そうだよ。これからはずっと白夜で暮らす事になるから、持って行く物は全部まとめたし、使わないものは欲しい人に譲ったの。この部屋は、マークスおにいちゃんやレオンおにいちゃんのお妃様や、その子供達に使ってもらえたら良いなって思って」
「そっか、どうりですっきりしたなと思ったんだ」
「殺風景でごめんなさい。あまり気にしないでね」
「ううん、良いよ」

　エリーゼがいそいそと茶を淹れる準備をする傍ら、タクミは改めて部屋の様子を眺めた。確か、奥に見える本棚には、彼女が一番好きだった童話があった筈だが、今は何も収められていないように見える。本棚だけではない。細工の施された食器棚にも、窓際に置かれている花瓶にも、その殆どには何も入っておらず、必要最低限の物だけが、この部屋には残されていた。自分が迎えに行く事が正式に決まってから今日のこの日まで、時間を掛けて整理してきたのだろう。環境が変わる以上は仕方の無い事ではあるが、何処か寂しげな部屋の佇まいに、少しだけ複雑な思いがタクミの胸中には浮かんでいた。

「はい、どうぞ。もう遅い時間だから、紅茶じゃなくてハーブティーにしたんだけど、どうかな？」

　エリーゼに勧められて、タクミは目の前に置かれた茶器を手に取り、ゆっくりと口に付けた。慣れない葡萄酒を飲んだ後だからか、優しい香りと温かさが不思議と身体に馴染んでいく気がする。

「うん、美味しいよ」
「本当？　良かった、気に入ってもらえて」

　タクミが頷いて口に合う事を伝えれば、エリーゼはほっとしたように表情を緩ませた。

「あたしね、白夜に行っても、こうやってタクミさんと一緒にお茶したいの。良い？」
「え？　それは勿論だよ。城の者達にも伝えてあるし、必要であればいつでも一緒に手伝うってさ。もっとも、皆が期待しているのは君が淹れてくれる紅茶の味みたいだけどね」
「そうなの？」
「うん。前に君が白夜に来た時、皆に淹れてくれた事があっただろう？　あれ以来、忘れられないんだって」
「そっか。そういう事なら任せて！　あたし、頑張るから！」

　エリーゼは声を弾ませて言う。心の片隅では、暗夜を離れる寂しさも感じているだろう。しかし、それを微塵にも出さず、彼女はただこれからへの未来に対する期待だけを、素直に表していた。

「ふふふ、楽しみだなあ」
「楽しみ？」
「うん。白夜に行けば、リョウマさんやヒノカさんにサクラ･･････他にも、お城の色んな人達に会えるし、何より、タクミさんとずっと一緒にいられるから！」

　エリーゼは表情を輝かせる。真っ直ぐにタクミを見つめて、嬉しそうに、心の底から嬉しそうに。屈託の無い笑顔と言葉は自分にとっても喜ばしいもので、そんな彼女だからこそ、傍にいて欲しいと願ったのだという事を、改めてタクミは思い出していた。

「タクミさん、あたしの事を好きになってくれてありがとう。あたし、今とっても幸せなんだよ」
「エリーゼ王女･･････。うん、僕も･･････僕もだよ。こちらこそ、僕の気持ちに応えてくれてありがとう」

　エリーゼの言葉に、こちらも表情を緩める。向かい合うその顔には、ますます歓喜の色が浮かんでいた。

「･･････あ、そうだ。エリーゼ王女、ちょっと良い？」
「うん？　何？」

　ふと思い出した事があり、タクミは椅子から立ち上がると、反対側に座っているエリーゼの元へと近付く。服の中に仕舞っていた物を出し、そっと目の前に差し出すと、エリーゼは不思議そうに目を瞬かせた。

「･･････？　タクミさん、これは？」
「開けてみてくれる？　気に入ってもらえると良いんだけど･･････」

　言われるまま、エリーゼは目の前に差し出された物、即ち桐製の小さな箱を受け取り、恐る恐る蓋を開ける。中に入っている物を目にした途端、エリーゼは思わず感嘆の溜め息を漏らした。箱を持った片手はそのままに、もう片方の手を口元に添えて、溢れる思いを抑えようとしても抑えきれない。そんな表情を見せる。

「ずっと前から渡したいなって思ってたんだけど、なかなか機会が無くて今になってしまったんだ。遅くなってごめん･･････」
「タクミさん･･････！　ううん、良いの･･････」

　エリーゼは何度も首を横に振った。箱の中には、彫金を施した小さな指輪が入っていて、その中心には薄紅色をした石が嵌め込まれている。何故タクミがこれを渡してくれたのか、その理由は、言わずともエリーゼには分かっていた。

「綺麗な石･･････。これは何の宝石なの？」
「これは珊瑚だよ。白夜では三の月の、つまり君の誕生月の守護石に当たるんだ。珊瑚には嫁入り前の女性を災厄から守る効果があるから、その意味も込めて、彫金職人に頼んで作ってもらったんだよ」
「そうなんだ。ありがとう、タクミさん。あたし、とっても嬉しい･･････」

　目の前の指輪を見つめながら、エリーゼは今にも泣き出してしまいそうな顔をしている。何度も目尻を指先で拭い、それでもその口元は嬉しそうに綻んでいた。

「ねえ、タクミさん。これ、今はめてみても良い？」
「勿論だよ。そしたら、僕がはめてあげるから、ちょっと貸して」

　タクミは箱からそっと指輪を取り出し、腰を屈めてエリーゼの左手をすくい上げた。片方の指先で細い薬指を支え、もう片方の手で指輪をゆっくりと嵌めていく。指輪は寸分違わずエリーゼの薬指に収まり、その光景を見て、エリーゼはますます表情を綻ばせた。

「･･････何だか夢みたい。あたし、本当にタクミさんのお嫁さんになれるのね」

　夢心地でエリーゼが呟いた。自分の薬指を、そこに嵌められた指輪をじっと見つめながら、頬を僅かに赤らめている。

「夢なんかじゃないよ。･･････エリーゼ王女、おいで」

　タクミが誘うとエリーゼは静かに頷いて、その身体をタクミの腕の中に預けてきた。そっと背中に腕を回せば、呼応するようにエリーゼもタクミの背に腕を回す。淡く、儚く、優しい時間が、ゆっくりと両者の間に流れていく。口には出さずとも、互いの温もりの心地良さを、タクミもエリーゼも感じ取っていた。

「あのね、タクミさん･･････」

　甘えるようにタクミの胸元に頬をすり寄せながら、おずおずとエリーゼが口を開いた。

「ん？　どうしたの？」
「一つ、お願いがあるんだけど、聞いてくれる？」
「うん、良いよ。何？」
「あたしの事、『エリーゼ』って呼んで欲しいの。だって、いつまでも『王女』じゃ他人みたいだから･･････」
「そっか、分かったよ。そしたら･･････本当の夫婦になったら、そう呼ばせてもらうね」

　タクミが言うと、エリーゼは顔を上げて、むっと口を尖らせた。タクミとしては、けじめを付ける意味でそう答えたのだが、エリーゼにとっては不満だったらしい。

「･･････嫌。それまで待っていられないわ。今からじゃ駄目･･････？」
「そ、そう言われても、急には無理だよ･･････。必ず呼んであげるって約束するから、もう少し待っててくれないかな？　一応、まだ僕達は一国の王子と王女って関係なんだし」
「うーん･･････それなら、もうちょっと我慢するけど･･････。タクミさんったら頑固なんだから･･････」

　エリーゼはまだ不満そうにしていたが、タクミの意を汲んで「約束だからね」と呟き、再びタクミの胸元に顔を埋めた。

　不意に、定刻を知らせる鐘の音が耳元に届き、二人してカーテンの隙間から窓の外を見遣る。その回数から、一日の終わりが近付いてきている事を察した。外の景色は闇に包まれたままだが、時間は確かに刻一刻と過ぎているのだ。

「ああ、もうこんな時間か。エリーゼ王女、悪いけど･･････」

　明日の事を考えれば、もう戻らなければならない。思って、タクミはそっとエリーゼの身体を離しながら言う。

「ううん、気にしないで。遅い時間まで引き止めちゃって、ごめんなさい」
「良いよ、別に。僕の方こそ、長居しちゃってごめん」

　本音を言えば、まだ離れたくない。だが、それは胸の内に留めて、タクミもエリーゼも、気持ちを明日の出立へと向けていた。部屋を出ようとするタクミの後を、エリーゼは小走りで追っていく。その手に嵌められた指輪を見つめながら、エリーゼはいっそう幸せそうな笑みを浮かべた。

「･･････そんなに嬉しい？」

　扉の前で立ち止まり、振り返った所でエリーゼの表情に気付き、タクミが尋ねた。エリーゼはタクミを一瞥すると、再び視線を指輪に戻して、「うん」と小さく頷く。

「折角だから、あたし、今日はこれを付けたまま寝ようと思ってるの。きっと、良い夢が見られそうだから･･････」
「そっか。そこまで喜んでもらえたのなら、良かった。本当に･･････そうなると良いね」
「ありがとう。タクミさん、あなたもね」

　蕩けるような表情で、エリーゼは言葉を紡ぐ。その表情に、心が揺れ動くのを密かに感じながら、ふとタクミは思案した。彼女の心は既に自分へと、白夜へと傾いている。しかし、もしかしたら暗夜の王女としてやり残した事がまだあるのではないか、と。思い当たる事は、一つだけある。それは、昨日は自らが拒んでしまい、叶えてあげられなかった事。そして、今、この心境であれば、この状況であれば、出来そうな事だった。

「エリーゼ王女」
「？　なあに？」

　声を掛けられて、エリーゼは小首を傾げながら、タクミを見つめる。視線が自分から動かないのを確認し、タクミはエリーゼの頬に触れると、何も告げずにそのまま唇を重ね合わせた。口付けたのは僅かな時間ではあったが、エリーゼにとっては全くの不意打ちで、タクミが顔を離すと、その表情は見る見るうちに紅潮していった。

「あ･･････タ、タクミさん、どうしたの？　急に･･････」

　予期せぬ事態に、エリーゼは声を震わせた。してしまってから、事の重大さにタクミも気付き、一気に面映ゆさが押し寄せ、落ち着かない様子で話す。

「いや、だって、君が言ってたじゃないか･･････。暗夜では、親しい人同士で、就寝前の挨拶として、その･･････口付けをするって･･････」

　タクミが言うと、エリーゼははっと目を見開いた。その行動の真意に、彼女も気付いたらしい。しばらく固まったまま、エリーゼは何も言えないでいたが、思う事があったのか、タクミの服の裾をぎゅっと引っ張って、恥ずかしそうに俯きながら呟いた。

「ずるい･･････」
「え･･････？」

　眉を顰めながら、エリーゼはタクミに訴える。

「何も言わないでするなんて、ずるいわ･･････。こういうのは、ちゃんとお互いにご挨拶してからするものなのよ･･････？　だから･･････だから･･････」

　もう一度、して欲しい。今にも消え入りそうな声で、エリーゼはタクミに懇願した。一生のお願いだからと言わんばかりに訴えられて、切なげな表情を浮かべられて、断る理由など、今はもう無く。タクミはその華奢な身体を引き寄せると、今度は昨日と同じように指先でエリーゼの頤をそっとつまみ上げた。

「おやすみなさい、タクミさん･･････」

　エリーゼが微笑みながら、タクミに告げた。タクミも同じように言葉を返そうとして、一瞬の間を置く。夫婦になってから、と自分では決めたつもりだが、今このひと時だけは、先に言っても良いのかもしれない。そう思った。

「おやすみ、･･････エリーゼ」

　不意に囁かれた自分の名前に、エリーゼは驚いて、思わず声を出しそうになってしまう。しかし、それよりも先にタクミの唇がエリーゼの唇を塞ぎ、言葉にする事は叶わなかった。その名前を口にすれば、彼女は必ず何か言ってくる。予測出来たからこそ、タクミはすぐに行動に移した。エリーゼの身体をきつく抱き締めてその動きを封じ、唇を更に深く押し付けると、苦しそうに吐息を漏らす音が耳元をくすぐった。エリーゼはタクミの腕に強く縋ったまま、半ば強引とも思えるようなその行為を拒む事無く、固く目を閉ざして受け入れている。自ら望んだが故の結果だと、エリーゼ自身も分かっているからだった。まるで永遠の別れを惜しむかのように、二人は互いの身体をぴったりと密着させて、長い事離れようとはしなかった。


「･･････それじゃあ、僕はこれで行くから」

　長い口付けを終えて、タクミは余韻を残すようにゆっくりとエリーゼから顔を離すと、少しだけ恥ずかしそうに囁いた。エリーゼも頬を赤らめ、熱っぽく瞳を潤ませたまま、小さく頷く。

「分かったわ。また明日ね、タクミさん･･････」
「うん、また明日･･････」

　互いの言葉を合図に、タクミはそっと扉を開けて、自らに宛がわれた部屋へと戻っていく。その様子を、エリーゼは扉の外に立ちながら、姿が見えなくなるまで見送っていた。見えなくなる直前、タクミが振り返ると、気付いたエリーゼがそっと手を振る。自分も同じように手を小さく振ってそれに応え、もう一度エリーゼの姿を目に焼き付けてから、再び歩き出す。その胸の内には、昨日とは全く異なる、未知の感情が浮かんでいた。期待と、焦燥と、寂寥と、今だけしか持つ事の出来ない特別な想いを、恐らくは彼女も感じてくれているに違いない。

　明けない夜など無い。分かっている筈なのに、これ程までに次の日が待ち遠しいと思ったのは、初めてだった。



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